この仮説は正しいのか。 古地図 明治の写真
三条実美 対鴎荘 橋場の渡し 白鬚橋
自分で作った画像。 仮説を検証する。
仮説
1.台東区側に建っている家は、対鴎荘である。
2.渡し舟は、橋場の渡しである。
3.船が付いた場所は、川に突き出た寺島の船着き場である。
隅田川に木の有料橋 白鬚橋が無い時代です。
明治前期 写真
・鉄の白鬚橋 橋場町44番地
・木の白鬚橋 44番地より北側
対鴎荘 住所は、浅草市橋場町43番地 44番地
対鴎荘は、明治時代の政治家三条実美(1837~1891)の別邸。
対鴎荘の住所は、浅草市橋場町43番地 橋場町44番地
正しいのか?
明治31年頃の古地図
白鬚橋 木橋
創架は1914年(大正3年)5月。
近在の人々が基金を募って資本金を作り「白鬚橋株式会社」を設立。
大正2年4月に着工して、約一年で完成した木橋である。
長さは一三〇間(約230m)であったと伝えられる。橋に番小屋を置き、大人一人1銭の通行料を取ったが、当時は渡し舟も多く走り、経営は苦しかったという。
後に2銭に値上げするも間に合わず橋の維持に支障をきたすようになり、
1925年(大正14年)に東京府が買い取り、
関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられることとなった。
もともと「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場があった場所であり、
特に橋場の渡しは江戸時代、文禄3年(1594年)に千住大橋が完成して主だった街道筋が移されるまでは、隅田川を渡る中心地であった。
対鴎荘は、明治時代の政治家三条実美の別邸でした。
征韓論をめぐって政府内に対立が続いていた頃、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していました。明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れています。
碑は、この事績を顕彰して建立されたものです。対鴎荘は、多摩市連光寺に移築されました。
1873年 明治6年 征韓論をめぐる政変で
昏倒した三条実美が、対鴎荘で療養していたそうです。
三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條 實美、
1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。
位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。 号は梨堂(りどう)。 変名は梨木 誠斉。
幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として
右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。
内閣発足以後の内閣総理大臣も兼任している。
1891年〈明治24年〉 インフルエンザで、53歳で亡くなった。
橋場の渡し 勝手に作った画像 合っていたようです。
1873年 明治6年 三条実美が、対鴎荘で療養。
1925年(大正14年)に、木橋を東京府が買い取り、
関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の鉄の橋に架け替えられることとなった。
三条実美の対鴎荘があったあたりの一部は、白鬚橋になったに違いない。
橋場町 橋場村の間には、思川が流れていたが、震災後は明治通りとなった。
木橋 北側
鉄の橋 南側 右側が橋場 対鴎荘