神は細部に宿る
っていう言葉の意味を最近痛感してきたというか。
たとえば建築の模型を作ったりしていると、以前はこう作りたいなというビジョンにあうように、まず全体的な形を考えてからそれに合うように細部を詰めていくような感じだった。たとえばモダンな建築を作りたいと思ったら(本当はどこに立てるつもりなのかとか光の通り方とかいろいろな観点があるけれども)、まず自分の中のイメージでは四角形を組み合わせたようなイメージがわいてくる。そこに素材はどうするかといったような思考が出てきてうんぬんかんぬん…。
もしくは水辺とそれに近い建築物を作り、歩く人に水の質や反射する光などを感じさせたいといったときにはまずそうする場所を全体のどこに
(どういった意図で)定め、それに応じてここを通路にして人の通りを作るだとか、そうすればどこに人が通ってその人から見た視点はうんぬん…。
そうやって考えたときに、自分の中では形を重視してしまう癖があって、素材や色などを軽視してしまう傾向にあった。しかしそれらの細部はあくまで主観的に見たときの細部であって、他の人から見れば全くそうではないときもあるだろうし、実際形だけを重視してもうまくいかないことなどいくらでもあったように思う。建築のイメージでも例えば町屋なんかははっきりとしたイメージが皆さんにもあるはずだ。しかし、その特徴的な屋根や表面のディテールなどをそぎ落とし、全体をコンクリートで作ったとしたらどうなるだろうか。おそらく全く異なる建築になるだろう。建築を決めるのは形だけではなく、その他さまざまな要素によって成り立っている。そのうえ細部があくまで主観的なものとするならば、神が細部に宿る、というよりかは、目立つような部分も細部も同位なのではないだろうか。
服なんかもそうで、ちょっと前だと胸のポケットをあえて普通より下に配置することでリラックスした感じを出すデザインが流行っていたように思う。音楽でも少しテンポや打楽器を変えただけで全く違う音楽になる。
…
あくまでこんなふうに思っているというメモでしかないので、これから考えがいろいろ変わってくるかもしれないということだけ言っておきたいですが、もののついでにもう一つ派生した話を書いてみようと思います。
というのも、ものには言い方があるのでは、と。
同じことを言っているにしろ、たとえばですが丁寧な言い方とそうでない言い方では全く受け取り方が違うことになるといったことが往々にしてあります。同じことを言っているのだからいいじゃないかという意見もありそうですが、我々社会を構成するものとして最低限相手に敬意を払って接するのは義務なのではないでしょうか。
特に最近ふと思ったのが、フィリピンのスラム街に行こうというプロジェクトでクラウドファンディングが行われているという記事を見たときのこと。少し興味が湧いて彼らの文章を読んでみたのですが、確かに最初うん?と思うこともありました。端的に言うなら、「井の中の蛙」ということで表されるんじゃないか、とも思ったりしたのですが、気になったのはそれらの文章や、紹介されている記事に続いた人々の反応です。プロジェクトを企画した学生に自分の思ったことを適切な範囲で伝えるのは全く自由だと思います。しかしそれらの中に彼らをひどく嘲笑、挑発するようなコメントなどが混じっているのです。これは、いくらなんでもいけない。ものには限度というものがある。たとえ間違いが一つあったとしても、それをむやみに責め続けるというのは決してほめられた行為ではないはずです。むしろそれは自分が満足したいだけなのではないでしょうか。彼らが間違っていると思うのならば、端的にそう思うこととその根拠を提出すればいい。
同様に。言い方ひとつで人は簡単に傷つくものです。先ほどのコメントのなかにも意図せずして荒っぽい言い方になっていると思われるものが何件かありました。言い方というものはいくらでも替えが利くはずで、そうであるが故に語尾や単語の選択一つにしろ相手に全く違った印象を与えうるものなんだと思います。そのような、細部と思えるような部分で自分の言いたいことをデザインするということ。それを意識するだけで受け取り方も全く違うものになってくるのではないでしょうか。
というのも、また一つの意見ということで。これもメモ代わりに。