いかにどの瞬間も楽しくいられるか、
時計を見たら
1月11日11時11分。
今日は新しい年はじめての満月。
体質改善ならぬ思考回路改善、波動改善をはじめて1ヶ月半。
身体は元気
エネルギーがありあまってる感じ
現実、はて、そう変わりはない
↓
こういう時間が増えてくると
どうも不安がモコモコとわきだす。
↓
えっ、何も変わらないじゃん
↓
この先も、何も変わらなかったらどうしよう
と
不安がどんどん膨らんでくる。
「目を醒す」と決めてから
「完全に目が醒める」を待っているあいだ、というのでしょうか。
不安を感じているのは
自分の行きたい未来を見ていないあらわれですよ、
という記事を見つけました。
https://ameblo.jp/whoaretime/entry-12440357604.html
不安の波動は大きい、
ドックンドックン
波動は広がって
いつのまにか自分の身体や心を支配してしまう。
この波動の大きさを利用して、
その波にそっとワクワクを乗せてみる
うれしいを乗せてみる
自分のたどり着きたい未来を乗せてみる
エイブラハムさんがいう17秒、そして68秒、
せっかく不安がでてきたんだもん、
この大きな波動を使って
うれしいに替えていこう。
「今、この瞬間」にうれしい波動を出すことを意識しよう。
後ろを振り返ると以前に出会った人たちがいる
その人たちは、楽しそうに暮らしている
なんだかすべてがうまくいってるように暮らしている
でも自分は、
その人たちとは違う生きかたをしたいんだ、と
思ってそこを出た。
だとしたら、
どうあっても前を向いて歩いていくしかないんだ。
その人たちについて思うこと、感じることは
すべてどうでもいいんだ。
それよりも
「その生きかたをやめる」
「新しい生きかたをする」
そういう選択をした自分を信じてあげたいと思う。
自分の直観を信じてあげたいと思う。
ぼんやりテレビを観ていたら
とても面白い番組の再放送がありました。
https://www.nhk.or.jp/special/jinrui/archive.html#onair3
第三回シリーズの三回目でその前のふたつを観てないので
どういう流れなのかわからないのですが、
その回では、
わたしたちの祖、ホモサピエンス、
つまりは人類が
どうやって世界中に広がっていったのか
ということがやっていました。
果てしない距離を
どうやって人は次の地へとたどりついたか
どうやって海を渡ったのか、
日本に人がやってきたルートには三つあるそうです。
○韓国などから日本に渡ってきたルール
○ロジアなどから日本に渡ってきたルート
○台湾から与那国島、沖縄へと渡ってきたルート
昨年、沖縄の布をめぐって旅をさせてもらいました。
記事を書きながら
沖縄、そしてそのまわりの島々を経由して
さまざまなものが日本、大和へ入ってきていることを感じました。
沖縄には、日本、大和の源流のようなものがあるのを感じました。
そしてその流れをつくっていたのが「黒潮」
黒潮は、東南アジアのほうから台湾、沖縄、本島へと流れこむ。
海流の流れがもし反対を向いていたら
日本は、まったく違う様相を帯びていたのかもしれない。
中国大陸からの、東南アジアからの文化が多く流れこんできました。
そしてもともとは、人そのものも「黒潮」の流れで入ってきていた、
といいます。
番組のなかでは、
台湾から最初の経由地である与那国島へ
どのようにして人が海を渡ってきたのか
それをたどる実験が行われていました。
当時あったと思われる道具だけを使い
そこに生息する植物だけを使い舟を作ります。
道具はすべて石です。
はじめは草をかり、乾かし、叩き、舟にしていきます。
人びと総出の作業です。
草では波の抵抗を受けてしまい
当時使っていた道具として見つかったのと
まったく同じ石斧をつくり竹を割ります。
すべての人たちが、
思い合い、助け合い作業が進んでいくのがわかります。
そこには、他人へのそねみ、ねたみは一切感じられません。
みんな目を輝かせて、生き生きと。
当時の人口から予測すると
渡った地で「人」というものを繁栄させるには
最低男女五組がその舟に乗り込むことが必要とされていました。
しかも
普段、台湾から与那国島は見えない、といいます。
何もない広大な海原に人びとは、舟をこぎだしたのでしょうか。
そんななか、台湾の高台に上った地で
これまでに二回だけ与那国島の影をみた
という写真家がでてきます。
その人が映した写真のなかに
海のむこうにかすみのように与那国島の姿が見えています。
人びとは、
かすかに見える島のおぼろな影だけを見て、
あの大きな海を渡っていったのだと思いました。
わずかな食料と水だけをもって。
それは
植物の種が舞いながら、
新しい地へたどりつき
より多くの種の保存をしていくのにとても似ているように感じます。
人も本来は、
恐怖とか不安とかいった思いを持ち合わせ
いなかったのかもしれない、そんな思いがよぎりました。
人はもっと動物的であり、もっと植物的であった。
並木良和さんの本の中で
人は「みんな誰もが神様だった」といっています。
しかし恐怖や不安や嫉妬、ねたみといった
重いものを自分のなかに持つことで神々と分離して、
「できない」ことを味わうことにしたんだ、と。
そして眠りに入っていった。
今、わたしたちは、
「目を醒す」ために
自分のなかにある
恐怖や不安をひとつひとつ一生懸命取り外す作業をしています。
それは
本来自分のなかにある
原始に近づいていくことなにかもしれないです。
映像のなかで、
新しい島へ渡る人たちを見送るひとたちがいました。
腰に草を撒いて
顔や身体は日に焼けて黒い。
日本に縄文がやってくる、その前の人びと。
人びとは歌を唄い、舞い、舟出する人びとを見送っています。
もう二度と会えないかもしれない、
海の上でなにかが起こるかもしれない、
見送る人たちのなかに、
そんな不安な思いはみじんも感じられません。
新しい地へ赴く人びとへのほこりだけがただ伝わってきます。
そして
海に出る人びとは、舟をこぎだします。
かすみのように見えた島の影を目指して。
ほんとうにあるかもわからない新しい地を目指して。
舟をこぎながらうれしくて仕方なかったのではないかと思います。
そして
いつの頃からか
人は他人と自分を比べたり、
縄張りをつくって戦ったり、することになります。
恐怖や不安、嫉妬、ねたみ、そういうものをつくりだしていきます。
でも、
本来、そんなもの、この世界にはなかったんだ。
海のむこうに
行きたい未来がかすみのようにでも見えているのだとしたら、
ひとつひとつ櫂をこいで、
未知の世界へむかっていくよろこびだけを感じて。
新しい地へこぎだし
上陸した人たちみたいに
わたしも大海原へと進んでいきたいなと思います。
舟出するうれしさだけを胸に。