東部ニュ-ギニア参戦時の第20師団の主要部隊長等の名簿!(改1) | パプアの幽霊部隊のブログ

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1943年1月から振り返れば、

1942年4月18日の東京初空襲受け、5月6日のサンゴ海海戦、6月5日のミツドウエイ-海戦の大敗北、8月8日の第1次ソロモン海戦から10月26日の南太平洋海戦時までの戦果及び第2師団総攻撃の失敗、、11月からの陸軍航空隊の同方面への導入等を総合的に判断すれば、戦況の変化が顕著に、もう日本は勝てない戦況だと思いますね。

以上のような南東方面の戦況悪化

の中で大本営陸軍部作戦部は

第20師団主力は1943年1月朝鮮半島から海路でウエワクへ上陸させました。上陸後、師団長は陣頭指揮でウエワク中・東飛行場の整備に

励まれたそうです。そして、マダン・ラエ道建設のためにマダン方面へ前進されて道路建設に励まれていたところ運悪くマラリアに罹患されました。

 

1 師団長: ① 青木重誠中将(25)1943年6月29日アメリ-で悪性マラリアの為、戦病死。現役師団長戦病死第2号。

        ② 片桐孝中将(25)1944年4月28日ウエワク後退中、米軍魚雷艇の攻撃を受けテレブ岬沖で戦死。現役師団長戦死第1号。

        ③中井益太郎少将(29)後、中将

2 歩兵団長:①柳川真二少将(23)ラエ道建設中、マラリアで後送。

         ②中井益太郎少将(29)

         ③三宅大佐(24)後、少将。前、歩兵第80連隊長。

 

3 参謀長: ①中井少将

        ②小野武雄大佐(32)1944年4月28日テレビ岬で戦死。

        ③高橋澄次大佐(33)前、第20師団司令部作戦主任。

                ⓸岩永中佐(37)前、第51師団司令部作戦主任。

 

 

4 参謀:高橋澄次中佐担当、作戦主任。

     高柳浅四郎中佐(34)情報担当。

     園田中佐(38)前、第20師団歩兵団長副官。

     川東少佐(49)前、歩兵第78連隊第1大隊長。

     高田佐壽朗少佐(47)後方主任、後、作戦主任。

     福家少佐(53)前、歩兵第79連隊の中隊長。痛恨のニュ-ギニア戦の著者。

            小坂外茂吉少佐(35)情報主任。。

 

 

 

5 歩兵第78連隊長:松本松次郎大佐(27)1943年6月ハンサ上陸5725名。アイタぺ戦後、ボイキン地区隊長。生還者112名。

 

6 歩兵第79連隊長:林田金城大佐(25)1943年1月22日ウエワク上陸、6151名。1944年4月21日連隊改編。アイタぺ戦後、ダグア地区隊長。生還者60名。

 

7 歩兵第80連隊長:①三宅貞彦大佐、後、少将。

              ②井出篤太郎大佐(25)。1943年1月23日ウエワク上陸、5258名、アイタぺ戦後、ブ-ツ地区隊長。生還者90名。

8 野戦砲第26連隊長:①佐伯縄四郎少将(27):さくらの森の第117兵站病院で戦病死。

               ②蔭山大佐(35),山南戦没。

2492名上陸、生還者106名。

9 工兵第20連隊長:小泉義純大佐(34)、

上陸1400名、生還者32名。

10 輜重兵第20連隊長:井場通敏大佐(26)

1943年3月ハンサ上陸、1264名、生還者82名。

11 第20師団兵器勤務隊長:宮川文二郎大尉、マルジップで戦没。

1943年4月12日ハンサ上陸、110名、生還者14名。

12 第20師団通信隊長:森村亮一郎少佐(47)、

上陸308名、生還者1名説と8名説。

13 第20師団衛生隊長:江本烈中佐(26)

1943年9月7日ハンサ上陸、1118名、生還者49名。

14 第20師団第1野戦病院長:平賀強少佐、

466名上陸、生還者49名。

15 第20師団第2野戦病院長:小穴勝弘少佐、

1943年4月12日ハンサ上陸、271名、生還者33名。

16 第20師団第4野戦病院長:伊藤靖次少佐、

266名上陸、生還者18名。

17 第20師団野戦防疫給水部長:西山光之丞少佐

上陸人員287名説と306名説、生還者?説と20名説。

 

 

 

注:( )は士官学校卒の期別です。

 

 

誤りがあれば、ご指摘をお願いいたします!

 

同師団の歩兵連隊長は全員、御無事で帰還されたようです。

大隊長クラスはフィンシュハ-フェン戦やアイタぺ戦それに山南戦等で戦没者が多いようです。

中隊長クラス、小隊長クラスは、それ以上の犠牲者が出ているようです。