5世紀末と6世紀前半、榛名山は大規模な噴火を起こしたらしい。

 

5世紀末の噴火規模はVEI4、6世紀前半はVEI5相当だったそうだ。

 

5世紀末の噴火は江戸時代の浅間山や3年前の福徳岡ノ場の噴火、6世紀前半は同じく江戸時代の宝永大噴火や一昨年のフンガ・トンガの噴火と同じレベルだと考えると、規模の大きさが想像しやすい。

 

6世紀前半の噴火が収まった頃と同じ時期に、群馬県藤岡市付近に緑野屯倉という大和朝廷の直轄地が設置されている。

 

そして、緑野屯倉が設置された前後に藤岡市の七輿山古墳が、榛名山の噴火が収まり泥流や堆積物による被害が一段落していたであろう6世紀後半に高崎市の貫前観音山古墳が建造されている。

 

まだ噴火規模のレベルは発表されていないが、伊豆諸島の西之島の噴火を見る限り、ひとたび大規模な噴火が起これば、その周辺では人が住めない状態が続くのは明白である。

 

その様な中で完成まで10年前後かかると思われる大規模な古墳が、噴火の影響が大きかった地域で立て続けに建造されたというのはどういうことなのだろうか。

 

これはあくまで私の推察だが、被害の大きさを目の当たりにした地元の豪族たちが朝廷へ支援を求め、朝廷の資金力をもとに復旧が進められ、地域が復興した象徴として古墳が造られたと考えられないだろうか。

 

長い歴史の中で、朝廷に対し様々な思いを抱く勢力が多くの記述を書き記しているが、客観的なデータを踏まえると、それらの文言には多くの疑問点が湧いてくる。

 

写真や動画、電子化された書物など、数多くのデータをPC1台で気軽に比較できる現代は、歴史について深く掘り下げて考えるのにうってつけの時代なのかもしれない。