ぎっくり腰の痛みから頭痛になって💦今日も気持ちが落ち気味、、、😫
こんな時は、、、
またまた、ですが💦
とある和尚さんの動画を流す。
またドンピシャ✨な内容で、自分でいつでも振り返れるよう書かせて頂きます(^.^)
自己満なブログですみません🙏
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ある若い女性からのお悩み。
病気になり、大きな手術をしました。
退院して友人や彼氏と会った時に、前向きにね!人生楽しもう!と言われ、
実際彼女たちは活動的で人生を楽しんでる様子に、自分はそうなれず、後ろ向きなのかな?と自己嫌悪になります。
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楽しみばかり、悲しみばかり、人生はそのどちらか一方ではない。
その両方を見据えた上で今日私はどうやって生きてゆくのか。
仏教では(釈迦は)これを中道という。
私たちは問題意識を持たない限り物事を深く考えない。
私たちの五感は外に向かってついている。
なので私たちは常に自分の外にある問題・刺激を求めて生きている。
その刺激に快楽があるものを求め、その刺激が痛みを伴うものを避ける。
これは人間の本能です。
自分の内側に目を向ける時それはそこに痛み違和感不快感を感じた時。
私たちの心が快楽で満たされてる時、わざわざ自分の心の内側に目を向けない。
例えばテーマパークで楽しんでる時に自分の心の不安は考えない。
突然若く病気を発症して自分の内側に目を向けるようになり、からだと心は密接に結びついているので自分の人生を問いなおす、そういうことが病気をキッカケに起きてきた。
一方で元気な友達は励ますつもりで「もっと前向きに生きようぜ」と言ってくれた。
そう言われるとこっちは「私が憂いを持ちすぎなのかな?考えすぎなのか?」と自分を思うことが周りの人たちとのギャップがどこから生まれてくるか?
それは単純に、老・病ともすれば死を身を持って実感をしたかしていないかその差です。
周りのご友人はまだそれを知らない、もしくはポジティブでいるということが幸せだとそう信じてそのようにふるまってらっしゃるのかもしれない。
いづれにしても自分が大病したビフォーアフターの落差は何なのかと言ったら、自分がまさに人生の現実に直面したということ。
私たちは病気について知っている。
でも病気になったことがなければ本当に病気を理解できない。
現代はみんな病院で生まれ亡くなることが多い。
死というのは遠いところにあって、病気というのは関係ない世界であって、それが自分に実際訪れるまで自分のことを振り返らない。
自分だってそうだったはず。
何でもできると思ってたはず。
ものを考えることについて、考えてもどうしようもないことは考える必要はないが、
考えるべきことは徹底して論理的に考えた方が良い。
私たちの生を徹底して考えたとき、みんな何歳かは分からないが老いて亡くなってゆく。
若くして病気を経験した人は、周りの人たちよりも早くそのことに直面した。
当然その時から自分の中に問いが始まります。
「今後どうやって生きてゆくのだろうか」
そういうことを考えさせられるほどに今回の病気が驚きを持って受け止められたわけです。
さて、これはネガティブな出来事でしょうか?
これこそがまさに人生の本質、現実なのです。
夢の世界から現実の世界に目を向けるキッカケだった。
この差は同じ世界に住みながら、とても大きい。
いつか必ず私たちが直面する問題について、あらかじめそれを理解し、それが起きるということを知って、それに備えてゆく心と体の準備そのものと、それを知らずに生きているのと全く違うのです。
ただ日々をおもしろく過ごすというだけではなく、何かそこにもう少し自分の人生を見据えて生きてゆくという、自分の命について自分の人生について深く考えるという、そのきっかけを得た。
このことは決して不幸ではない。
ここをごまかすことなく、避けること亡く、徹底して見つめることによって、おそらく人生のまた一歩成長をとげられたと捉えてください。
そして、決して周りの元気な人たちが悪いわけではない。
それが彼らの若さなのだから。
でも、いつか、近い将来、彼らも同じような現実に直面するだろう。
私たちは必ずいつか老いて病にかかり亡くなってゆく。
この現実をいち早く見据えた者とそうでない者と、
それが人生の前半で訪れる人と後半で訪れる人と、
自分の心について準備と練習と生き方の転換ということにおいては、決してこれは人生の後半にそれが起きるよりも前半に起きてる方がむしろ対策が立てやすい。
今、自分が、楽しみ、悲しみ、そこにどっちを基軸として生きてゆくのか、
悲しみからの、いや楽しみからのルート、いや、人生はどっちもあるのだ。
悲しみや憂いを持ってはいけないのか?
いや、そんなことはない。
悲しみや憂いや痛みがあるから、私たちは人生の現実に気づくことができる。
喜びだけしかない、そんな人生はない。
表面上そうであるならば、それは嘘です。
悲しみも喜びもそれを越えていった時に本当の意味での充実感生きる喜びというのが出てきます。
人生には憂いも悲しみも喜びも興奮も全てある。
そのことを知ったうえで、今日、自分がどう生きたのか、それが人の幸せに繋がってゆく。
憂いを悲しみを持った自分、これを決して責める必要はない。
でも、一方で、楽しく生きている友を羨む必要はない。
自分は自分の病気を通じて、自分の人生の本質に今一歩深く目を向けて、自分はどうあるのかに向き合っている。
このことは必ず今後の人生に着実な一歩とそして喜びに満ちた人生への糧となってゆく。
今回の出来事は一つの気づき。
人生の現実について自分の体がちゃんと向き合わせてくれた、そういう出来事として受け止め、これからの人生と向き合おう。