機動隊の辞令を受けた時は、いろな人達とさよならした。
異動は仕事柄仕方ないと言えば仕方ないが、本当にみんなに良くして貰ったから辛かったな。
後で聞いた話しだが、俺が居た駅前の商店街の人達全員が俺の居た班を
『異動させないで欲しい』
と、警察署に嘆願書を提出してくれたとのこと。
人事異動が発令されてからじゃ遅かった嘆願書だけど、その気持ちが本当に嬉しかったな。
挨拶から始まった駅前交番…
最後もキチント挨拶で終わった20歳の夏。
赴任休暇が終わると同時に県警機動隊に入隊。
殆んどが警察学校時代の同期だったけれど、同窓会気分には誰一人なってなかった。
未知なる世界の不安…
それ以外の言葉が見つからなかったけど、俺は先輩の死が頭から消えてなかったのも事実だった。
1中2小1分隊…
これが俺の配属だった。
県警によって違うだろうが、1個分隊は10名前後で分隊長が分隊の責任者。
分隊長の下に組長が居て伝令の役目も果たしてた。
この1個分隊が3個集まって1個小隊になる。
小隊の責任者が小隊長で、そばには小隊伝令が一人。
1個小隊で30人前後になるが、この1個小隊が3個集まると1個中隊になり、中隊の責任者が中隊長で、伝令が4人になる。
この中隊伝令は、隊員の中ではトップクラスで、誰しもが中隊伝令の部屋には恐ろしくて入れなかったほどである。
参考までに、1個中隊が2個集まると1個大隊で、1個大隊が2個集まると1連隊だった。
大隊になると大隊長は、機動隊の隊長か副隊長で階級が警視以上。
中隊長は警部で小隊長が警部補、分隊長は巡査部長で組長は巡査長だったよ。
小隊・中隊の伝令は、その長が決定してたから、階級は様々だった。
とにかく、縦社会の組織は高校1年の頃より遥かに酷くて想像を超えてたよ。
入隊式の終了後、俺達より半年早く入隊した準指導員の先輩から、機動隊での日常生活の指導を受けた。
そして、その夜には新隊員の歓迎会だったけど
歓迎会じゃなかったよ。
分隊長を筆頭に、散々やられたよ。
『お前らは今日から奴隷以下だ。』
と分隊長に言われたことは忘れられない。
先輩や上司が白と言えば黒でも白になる世界。
無理矢理酒を飲まされて、急性アルコール中毒になり一命を取り留めた同期もいた。
いくら小学校から酒を飲んでた俺でも、半端じゃない酒豪集団には参ったよ。
中には、飲みたく無くて隠れたりした同期もいたけど…、見つかった時は半端じゃなかったな。
この時に、警察学校時代の機動隊の怒鳴り声の意味が良く分かったよ。
組長から、
『夜逃げしたかったらしていいぞ。俺達が探しに行くのも仕事になるから、そんな楽しい仕事はないからな』
と言われた時は
『これが警察官か…!?』
と思ったものだよ。
酒の席では、先輩より早く寝ることも潰れることも許され無かったから、常に緊張してたよ。
指導と言う名の下で、どれだけの暴力を受けたか分かりゃしない。
訓練も半端じゃなかったな。
機動隊から10キロ先の河川敷で訓練をしてたけど、
訓練終了後は、走って帰ったものだった。
帰ったら、先輩達の隊服などの洗濯や、編み上げ靴の靴磨き。
どんなに雨で濡れてても、キチント乾かして朝にはピカピカにしてないと許されなかった。
朝は5時起床でトイレ掃除したり、訓練や出動準備をしてたから本当に自由な時間は無かったよ。
俺達が粗相すると、準指導員の先輩達が殴られて、準指導員の先輩達が俺達を殴るような状態も日常茶飯事だった。
それでも…
俺達分隊の準指導員の先輩は良かったよ。
『信じられないけど、これが現実なんだ。納得行かないけど、どうにもならないから、我慢に我慢して俺達が上になった時に機動隊を変えようよ
それまで、殴られるのも仕事だと思ってくれ。
すまない…。』
と、いつも言ってくれてたよ。
俺が居た1中隊には、アクアラング部隊・レスキュー隊・レンジャー部隊は勿論有ったが、
それ以外に、ラグビーと柔道が有った。
他の中隊には、剣道とかボート・サッカーなども有り、出動以外の訓練の日以外は、試合にそなえて朝から晩まで練習してたよ。
それでね、俺はラグビー小隊だったんだよね。
『お前はレンジャー部隊に名前が上がってたけど、俺がラグビー小隊に引っ張ったんだ。だから、俺に感謝しろよ』
と、分隊長が言った言葉に
『何を感謝すればいいのか分からなかったよ』
全くやったことが無いラグビーより、レンジャー部隊の方が俺はまだ良かったと今でも思うよ。
ラグビーのルールも何も分からなくてね…
先輩達は通常の訓練の時より生き生きしてたけど、俺は最悪だったよ。
ただ足が早いと言うだけでウイングをやらされてたけど、1日中走ってるようなものだったな。
ラグビーは紳士のスポーツと言うけれど…
あれは紳士のスポーツではないよ。
本当に言葉では言い表わせない奴隷の日々が続いたな。
成田出動の前日は
『死を覚悟して体を清めろ』
と言われ、夜中の3時過ぎまで酒を飲まされ、
その後は、新隊員全員で弁当作り。
朝6時に出動してたから、寝てる暇もないんだな。
フル装備して、機動隊バスに乗るけど、少しでも寝たら後ろからヘルメットに蹴りが飛ぶんだよね。
よく準指導員の先輩が
『一年間は奴隷でも、二年目は毎日が遠足で三年目は毎日が修学旅行』
と言ってた。
半年後…
春に新隊員が入隊したけど、殆んどがまた同期だったから遣りづらかった。
準指導員になっても、奴隷には変わりなかったな。
デモ隊訓練や、火炎ビン訓練は本気さながらで、何人もが病院送りになってたよ。
再起不能になって何年も病院生活を送った先輩も見てきたよ。
交番時代の先輩のように、訓練で殉職した仲間も居た。
ただ…
夜中まで酒を飲まされたり精神的・肉体的苦痛が無かったら…
そう思うと、避けられた事故は幾つか有ったと今でも思う。
更に半年後…
機動隊2年目にして、毎日が遠足になろうとした矢先のこと。
俺は中隊伝令の辞令が発令された。
誰しもが恐れてた部屋に入ることになった
21歳の夏の日である。
続く
異動は仕事柄仕方ないと言えば仕方ないが、本当にみんなに良くして貰ったから辛かったな。
後で聞いた話しだが、俺が居た駅前の商店街の人達全員が俺の居た班を
『異動させないで欲しい』
と、警察署に嘆願書を提出してくれたとのこと。
人事異動が発令されてからじゃ遅かった嘆願書だけど、その気持ちが本当に嬉しかったな。
挨拶から始まった駅前交番…
最後もキチント挨拶で終わった20歳の夏。
赴任休暇が終わると同時に県警機動隊に入隊。
殆んどが警察学校時代の同期だったけれど、同窓会気分には誰一人なってなかった。
未知なる世界の不安…
それ以外の言葉が見つからなかったけど、俺は先輩の死が頭から消えてなかったのも事実だった。
1中2小1分隊…
これが俺の配属だった。
県警によって違うだろうが、1個分隊は10名前後で分隊長が分隊の責任者。
分隊長の下に組長が居て伝令の役目も果たしてた。
この1個分隊が3個集まって1個小隊になる。
小隊の責任者が小隊長で、そばには小隊伝令が一人。
1個小隊で30人前後になるが、この1個小隊が3個集まると1個中隊になり、中隊の責任者が中隊長で、伝令が4人になる。
この中隊伝令は、隊員の中ではトップクラスで、誰しもが中隊伝令の部屋には恐ろしくて入れなかったほどである。
参考までに、1個中隊が2個集まると1個大隊で、1個大隊が2個集まると1連隊だった。
大隊になると大隊長は、機動隊の隊長か副隊長で階級が警視以上。
中隊長は警部で小隊長が警部補、分隊長は巡査部長で組長は巡査長だったよ。
小隊・中隊の伝令は、その長が決定してたから、階級は様々だった。
とにかく、縦社会の組織は高校1年の頃より遥かに酷くて想像を超えてたよ。
入隊式の終了後、俺達より半年早く入隊した準指導員の先輩から、機動隊での日常生活の指導を受けた。
そして、その夜には新隊員の歓迎会だったけど
歓迎会じゃなかったよ。
分隊長を筆頭に、散々やられたよ。
『お前らは今日から奴隷以下だ。』
と分隊長に言われたことは忘れられない。
先輩や上司が白と言えば黒でも白になる世界。
無理矢理酒を飲まされて、急性アルコール中毒になり一命を取り留めた同期もいた。
いくら小学校から酒を飲んでた俺でも、半端じゃない酒豪集団には参ったよ。
中には、飲みたく無くて隠れたりした同期もいたけど…、見つかった時は半端じゃなかったな。
この時に、警察学校時代の機動隊の怒鳴り声の意味が良く分かったよ。
組長から、
『夜逃げしたかったらしていいぞ。俺達が探しに行くのも仕事になるから、そんな楽しい仕事はないからな』
と言われた時は
『これが警察官か…!?』
と思ったものだよ。
酒の席では、先輩より早く寝ることも潰れることも許され無かったから、常に緊張してたよ。
指導と言う名の下で、どれだけの暴力を受けたか分かりゃしない。
訓練も半端じゃなかったな。
機動隊から10キロ先の河川敷で訓練をしてたけど、
訓練終了後は、走って帰ったものだった。
帰ったら、先輩達の隊服などの洗濯や、編み上げ靴の靴磨き。
どんなに雨で濡れてても、キチント乾かして朝にはピカピカにしてないと許されなかった。
朝は5時起床でトイレ掃除したり、訓練や出動準備をしてたから本当に自由な時間は無かったよ。
俺達が粗相すると、準指導員の先輩達が殴られて、準指導員の先輩達が俺達を殴るような状態も日常茶飯事だった。
それでも…
俺達分隊の準指導員の先輩は良かったよ。
『信じられないけど、これが現実なんだ。納得行かないけど、どうにもならないから、我慢に我慢して俺達が上になった時に機動隊を変えようよ
それまで、殴られるのも仕事だと思ってくれ。
すまない…。』
と、いつも言ってくれてたよ。
俺が居た1中隊には、アクアラング部隊・レスキュー隊・レンジャー部隊は勿論有ったが、
それ以外に、ラグビーと柔道が有った。
他の中隊には、剣道とかボート・サッカーなども有り、出動以外の訓練の日以外は、試合にそなえて朝から晩まで練習してたよ。
それでね、俺はラグビー小隊だったんだよね。
『お前はレンジャー部隊に名前が上がってたけど、俺がラグビー小隊に引っ張ったんだ。だから、俺に感謝しろよ』
と、分隊長が言った言葉に
『何を感謝すればいいのか分からなかったよ』
全くやったことが無いラグビーより、レンジャー部隊の方が俺はまだ良かったと今でも思うよ。
ラグビーのルールも何も分からなくてね…
先輩達は通常の訓練の時より生き生きしてたけど、俺は最悪だったよ。
ただ足が早いと言うだけでウイングをやらされてたけど、1日中走ってるようなものだったな。
ラグビーは紳士のスポーツと言うけれど…
あれは紳士のスポーツではないよ。
本当に言葉では言い表わせない奴隷の日々が続いたな。
成田出動の前日は
『死を覚悟して体を清めろ』
と言われ、夜中の3時過ぎまで酒を飲まされ、
その後は、新隊員全員で弁当作り。
朝6時に出動してたから、寝てる暇もないんだな。
フル装備して、機動隊バスに乗るけど、少しでも寝たら後ろからヘルメットに蹴りが飛ぶんだよね。
よく準指導員の先輩が
『一年間は奴隷でも、二年目は毎日が遠足で三年目は毎日が修学旅行』
と言ってた。
半年後…
春に新隊員が入隊したけど、殆んどがまた同期だったから遣りづらかった。
準指導員になっても、奴隷には変わりなかったな。
デモ隊訓練や、火炎ビン訓練は本気さながらで、何人もが病院送りになってたよ。
再起不能になって何年も病院生活を送った先輩も見てきたよ。
交番時代の先輩のように、訓練で殉職した仲間も居た。
ただ…
夜中まで酒を飲まされたり精神的・肉体的苦痛が無かったら…
そう思うと、避けられた事故は幾つか有ったと今でも思う。
更に半年後…
機動隊2年目にして、毎日が遠足になろうとした矢先のこと。
俺は中隊伝令の辞令が発令された。
誰しもが恐れてた部屋に入ることになった
21歳の夏の日である。
続く