サロベツ原野の大地の中で
5歳と4歳年上の二人の兄貴と、二歳年下の妹がいる俺は
酪農家の甘ったれ三男坊として、
昭和36年12月…
この世に生を受けた。
今では、140頭ほどの牛がいるらしいが、
田舎での140頭は中規模クラスの酪農家とのこと。
俺が、物心ついた当時は確か…
10頭もいなかったような気がする。
妹が社会人になったばかりの頃、
『うちは絶対貧乏だったと言える自信があるよね』
と、よく俺に言ってたものだった。
きっと、俺達より貧しい人達は、あの頃にはもっといただろうけど…、
もしかしたら、今の時代の方が大変なのかもしれないけど…
あの当時の俺達は
間違いなく貧乏の部類に入ってたと
俺も言えるよ。
周りは電気生活だったけど、
小学二年生の時まで、ランプの生活を覚えているし
周りがカラーテレビの頃
小学5年生頃までは白黒テレビだったことも忘れてない。
そして…、
周りが水道を使っていても、当時はポンプで地下水を汲み上げてたことも
飲み水を川へ水を汲みに行ってたことも
その全部を覚えてる。
お袋が17歳で、親父が27歳の頃に山形から北海道に開拓者として来た二人。
開拓者と言えば、ある意味格好良くて勇気ある二人に思えるが
実際は、駈け落ち結婚。
どっちにしても、当時の時代の流れからして
ある意味、格好良くて勇気ある二人には間違い無かったかもしれない。
でも…、無理がたたって、親父は闘病生活に強いられてしまった。
そのため…
俺は小学二年生まで親父を知らない。
知らないから、親父が居ないことが当たり前だったけれど
慣れない土地と厳しい寒さの中で、
おふくろ一人で、幼い俺達を育ててくれたことには本当に感謝している。
19歳で一番上の兄貴を生み、翌年には二番目の兄貴を早産し
当時の医者に見放された二番目の兄貴…
それでも、おふくろは諦めることなく、スポーツ万能なほどの体力の持ち主まで兄貴を育て上げた。
俺や妹に比べたら、二人の兄貴の方が
言葉にならないほどの、本当に苦労をしたと思うよ。
小学校低学年のうちから、俺や妹をおんぶしながら、家の仕事や勉強をしていたことを
昔、俺や妹は良く言われてよ。
そんな状態だったから、物心つく前から、家の仕事は必須で
『働かざる者、食うべからず』
だったから、義務教育までは、朝5時に起きて搾乳してから学校に行ってたよ。
そして、学校から帰って来たら
また、家の仕事をするのが当たり前の時代だった。
牧草の刈り入れ時期は時期で、牛の冬の餌を確保するために
人手が足りない。
今は、全部機械だから兄貴一人でできてしまうけど…
昔は、家族総出でも足りないくらいだったよ。
牧草時期に、力仕事ができない俺達が
一番最初に覚えさせられるのが
トラクターの運転。
そして、次にはトラック。
自分の土地だから、何ら罪にはならないから
小学校5年生で車を運転してたよ。
あの頃の時代は、幸か不幸か、それが当たり前だったな…。
ちなみに、その頃にお酒も覚えてしまった俺。
中学・高校と、たまに親父の晩酌に付き合ってたものだ。
小学校高学年になると、牛舎の仕事は全部覚え、
両親や兄貴達が居なくても、一人で20頭ほどの搾乳をし、牛舎の仕事は全てできてたよ。
でもね…
家の仕事は、大人並みにできても、
中学までは、本当に学校の成績が悪くて、
おふくろに何度、
叱られて嫌味を言われたことか分かりゃしない。
小学校で自慢できたのは
体育と図工に家庭科で
中学で自慢できたのも、
体育と美術と技術だけ。
殆ど、オール5の妹と、全部オール5の二番目の兄貴に挟まれてた俺は
通信簿を貰う時期が嫌で嫌でたまらなかったな。
それでも…
なんであろうと自慢できるものが、ひとつでも有れば
不思議と他のことには、あまり屈しない俺もいたよ。
田舎の学校は小中学校だから
ひとつの校舎に正面玄関を隔てて
小学生と中学生の教室が有った。
小学生は複式だから、ひとつの教室で、ふたつの学年が授業を受けるから
先生方は、それなりの能力が無いと勤まらなかったと思う。
1学年、6人から10人ぐらいだったから、ちょっとした個人塾とあまり変わらないかもしれないな。
テレビで、『3年B組金八先生』が、何度か放映されてたけど、
金八先生のような人に、俺は、小学校で出会い
その先生が、3年生・5、6年生の時が担任だったよ。
あの先生がいなければ…
今の俺が居なかったと言っても過言では無いかもしれない。
今の俺を知ってる人は誰も信じないだろうが
小学生の頃の俺は…
自分で言うのもなんだが、
とっても真面目だったけれど、
馬鹿で内向的で泣き虫だったよ。
国語の時間等は、音読の際に漢字が読めないだけで泣いてた俺だった。
そんな頃の俺を知ってるのは
当時の先生を除いて、クラスの7人しかしらない。
金八先生のような恩師のお陰で
通信簿に毎回書かれてた
『いつも内向的で心が弱く…』
の言葉は
小学校卒業と同時に
それ以来書かれたことは無いが…
中学に入っても、学業の成績だけは変わらなかったな。
それでも親父は
『おまえは頭が悪いんじゃ無いんだよ。勉強の遣り方が悪いだけなんだ。
その遣り方と意識を変えたら、
おまえの成績は上がるんだよ。
だけどな…
一番大事なのは元気な体と行動評価なんだよ。
だから、おまえはおまえでいいから、勉強は本当にヤル気が出た時にやればいい』
と、いつも言ってくれてたのには
本当に嬉しかったし
心が救わてたよ。
中学時代は、高校を選べるほどの成績は無く
私立は絶対に許されなかったから
受験できたのは
ひとつの高校だけだった。
運良く合格して、夢見る高校生活を送りたかったけど…
次回 第2章~高校編
5歳と4歳年上の二人の兄貴と、二歳年下の妹がいる俺は
酪農家の甘ったれ三男坊として、
昭和36年12月…
この世に生を受けた。
今では、140頭ほどの牛がいるらしいが、
田舎での140頭は中規模クラスの酪農家とのこと。
俺が、物心ついた当時は確か…
10頭もいなかったような気がする。
妹が社会人になったばかりの頃、
『うちは絶対貧乏だったと言える自信があるよね』
と、よく俺に言ってたものだった。
きっと、俺達より貧しい人達は、あの頃にはもっといただろうけど…、
もしかしたら、今の時代の方が大変なのかもしれないけど…
あの当時の俺達は
間違いなく貧乏の部類に入ってたと
俺も言えるよ。
周りは電気生活だったけど、
小学二年生の時まで、ランプの生活を覚えているし
周りがカラーテレビの頃
小学5年生頃までは白黒テレビだったことも忘れてない。
そして…、
周りが水道を使っていても、当時はポンプで地下水を汲み上げてたことも
飲み水を川へ水を汲みに行ってたことも
その全部を覚えてる。
お袋が17歳で、親父が27歳の頃に山形から北海道に開拓者として来た二人。
開拓者と言えば、ある意味格好良くて勇気ある二人に思えるが
実際は、駈け落ち結婚。
どっちにしても、当時の時代の流れからして
ある意味、格好良くて勇気ある二人には間違い無かったかもしれない。
でも…、無理がたたって、親父は闘病生活に強いられてしまった。
そのため…
俺は小学二年生まで親父を知らない。
知らないから、親父が居ないことが当たり前だったけれど
慣れない土地と厳しい寒さの中で、
おふくろ一人で、幼い俺達を育ててくれたことには本当に感謝している。
19歳で一番上の兄貴を生み、翌年には二番目の兄貴を早産し
当時の医者に見放された二番目の兄貴…
それでも、おふくろは諦めることなく、スポーツ万能なほどの体力の持ち主まで兄貴を育て上げた。
俺や妹に比べたら、二人の兄貴の方が
言葉にならないほどの、本当に苦労をしたと思うよ。
小学校低学年のうちから、俺や妹をおんぶしながら、家の仕事や勉強をしていたことを
昔、俺や妹は良く言われてよ。
そんな状態だったから、物心つく前から、家の仕事は必須で
『働かざる者、食うべからず』
だったから、義務教育までは、朝5時に起きて搾乳してから学校に行ってたよ。
そして、学校から帰って来たら
また、家の仕事をするのが当たり前の時代だった。
牧草の刈り入れ時期は時期で、牛の冬の餌を確保するために
人手が足りない。
今は、全部機械だから兄貴一人でできてしまうけど…
昔は、家族総出でも足りないくらいだったよ。
牧草時期に、力仕事ができない俺達が
一番最初に覚えさせられるのが
トラクターの運転。
そして、次にはトラック。
自分の土地だから、何ら罪にはならないから
小学校5年生で車を運転してたよ。
あの頃の時代は、幸か不幸か、それが当たり前だったな…。
ちなみに、その頃にお酒も覚えてしまった俺。
中学・高校と、たまに親父の晩酌に付き合ってたものだ。
小学校高学年になると、牛舎の仕事は全部覚え、
両親や兄貴達が居なくても、一人で20頭ほどの搾乳をし、牛舎の仕事は全てできてたよ。
でもね…
家の仕事は、大人並みにできても、
中学までは、本当に学校の成績が悪くて、
おふくろに何度、
叱られて嫌味を言われたことか分かりゃしない。
小学校で自慢できたのは
体育と図工に家庭科で
中学で自慢できたのも、
体育と美術と技術だけ。
殆ど、オール5の妹と、全部オール5の二番目の兄貴に挟まれてた俺は
通信簿を貰う時期が嫌で嫌でたまらなかったな。
それでも…
なんであろうと自慢できるものが、ひとつでも有れば
不思議と他のことには、あまり屈しない俺もいたよ。
田舎の学校は小中学校だから
ひとつの校舎に正面玄関を隔てて
小学生と中学生の教室が有った。
小学生は複式だから、ひとつの教室で、ふたつの学年が授業を受けるから
先生方は、それなりの能力が無いと勤まらなかったと思う。
1学年、6人から10人ぐらいだったから、ちょっとした個人塾とあまり変わらないかもしれないな。
テレビで、『3年B組金八先生』が、何度か放映されてたけど、
金八先生のような人に、俺は、小学校で出会い
その先生が、3年生・5、6年生の時が担任だったよ。
あの先生がいなければ…
今の俺が居なかったと言っても過言では無いかもしれない。
今の俺を知ってる人は誰も信じないだろうが
小学生の頃の俺は…
自分で言うのもなんだが、
とっても真面目だったけれど、
馬鹿で内向的で泣き虫だったよ。
国語の時間等は、音読の際に漢字が読めないだけで泣いてた俺だった。
そんな頃の俺を知ってるのは
当時の先生を除いて、クラスの7人しかしらない。
金八先生のような恩師のお陰で
通信簿に毎回書かれてた
『いつも内向的で心が弱く…』
の言葉は
小学校卒業と同時に
それ以来書かれたことは無いが…
中学に入っても、学業の成績だけは変わらなかったな。
それでも親父は
『おまえは頭が悪いんじゃ無いんだよ。勉強の遣り方が悪いだけなんだ。
その遣り方と意識を変えたら、
おまえの成績は上がるんだよ。
だけどな…
一番大事なのは元気な体と行動評価なんだよ。
だから、おまえはおまえでいいから、勉強は本当にヤル気が出た時にやればいい』
と、いつも言ってくれてたのには
本当に嬉しかったし
心が救わてたよ。
中学時代は、高校を選べるほどの成績は無く
私立は絶対に許されなかったから
受験できたのは
ひとつの高校だけだった。
運良く合格して、夢見る高校生活を送りたかったけど…
次回 第2章~高校編