2000年4月。
4月の音を聞くと共に、ほとんどのメンバーが帰国し、
ワンダには、俺と2年の洋介さんしかいなくなった。
このワンダの旅も59日。
とうとう自分らも帰国する日が来た。
ソーリーの車に乗せてもらい、空港へ向かった。
空港に着くと、2月の初め、初めて海外の地に足を踏み入れた時のことが
懐かしいようで、昨日のことのようにも感じられた。
ソーリーと握手した。
いつまでこっちにいるんだろうって感じのナオさんとも握手した。
ああ、とうとう終わってしまったんだ。
もう数カ月ここにいてもいいなって思った。
帰りの飛行機の中で凄い事件が起きた。
なんと、
日本の総理大臣が代わっていたのだ。
俺たちのオブチさんは病に倒れ、
モリさんというとても人相の悪い人が内閣総理大臣になっていた。
あと、実は、俺がワンダにいる間に両親が離婚していた。
ワンダへ行く前と行ったあとで、こうも世の中が変わっていたなんて・・・。
帰国すると、さらなるハプニングに見舞われた。
円を持っていなかったのだ。
全財産をオーストラリアドルに替えて旅立ったのを忘れていた。
水の1本も買えない。
餓死しそうになったので、
先輩に頼み込んで学食でカレーをおごってもらった。
とにかく金がない。
あたりまえだけど、オーストラリアでは、円を使わなかったので、
向こうにいる間はどこか、おもちゃ銀行のような感覚で豪ドルを使っていた。
これまでの2ヶ月あまり、ゲームみたいな世界にいて、
急に現実に戻されたような気分になった。
それからというもの、
とにかく日雇いのバイトと部活を繰り返した。
本当は凱旋帰国気分で、
みんなにごつくなったとか、黒すぎとか言われたかったんだけど、
そんな余韻に浸っているヒマなど無かった。
でも知らない間にとても成長していた。
ある日、全日本室内選手権(現在の「全日本プール競技選手権」)が
近いということで、50Mと400Mのタイム測定を行った。
すると、38秒かかっていた50Mは32秒。
8分半かかってた400Mは6分20秒で泳げるようになっていた。
1年前、己を知らずにBコースで泳いで、
ソッコーでCコース行きを命じられていた自分が、
Bコースでも中位くらいまでに伸びていたのだ。
そしてやってきた全日本室内選手権。
俺には必殺技があった。
50Mマネキンキャリーで歴史は動いた。
(25M泳いで、沈んでるマネキンを引き上げ、残り25Mはマネキンを運びながら泳ぐ競技)
全ての人が、後半の25Mは仰向けになって、足を平泳ぎのようにさせながら
マネキンを運ぶのに対し、
俺はなんと、片手クロールのような体勢でマネキンを運んだのだ。
しかし遅い。
記録、50秒・・・。
マネキンにカラダを沈められるかと思った。
周りの失笑を買った。
世界大会で見た各国の選手はもっと上手にやってたんだけどなぁ・・・。
でももし、今後、マネキンを片手クロールで運ぶのが日常的になったら、
それはみんな、俺のマネっこということになるだろう。
パイオニアになれるだろうか。
そんな室内選手権も終わり、いよいよ新歓合宿が近づいてきた。
1年前、金城武のマネをして、黒い歴史を作った、あの白浜に、
あの白浜荘に行けるのだ。
しかも今度は先輩として。
中学・高校時代、まともに部活動をやってこなかった自分にとって、
初めての「後輩」が20人以上できたのだ。
今ひとつ接し方がわからなかったけど、浜説明では一人でも多く、
西浜に一緒に行きたいって子を作ってやろうと思った。
なんか、だんだん部活の流れがわかってきて、
なんだかとても楽しく感じられるようになってきた。
この調子で、夏の西浜に向けてやっていこう!
4月の音を聞くと共に、ほとんどのメンバーが帰国し、
ワンダには、俺と2年の洋介さんしかいなくなった。
このワンダの旅も59日。
とうとう自分らも帰国する日が来た。
ソーリーの車に乗せてもらい、空港へ向かった。
空港に着くと、2月の初め、初めて海外の地に足を踏み入れた時のことが
懐かしいようで、昨日のことのようにも感じられた。
ソーリーと握手した。
いつまでこっちにいるんだろうって感じのナオさんとも握手した。
ああ、とうとう終わってしまったんだ。
もう数カ月ここにいてもいいなって思った。
帰りの飛行機の中で凄い事件が起きた。
なんと、
日本の総理大臣が代わっていたのだ。
俺たちのオブチさんは病に倒れ、
モリさんというとても人相の悪い人が内閣総理大臣になっていた。
あと、実は、俺がワンダにいる間に両親が離婚していた。
ワンダへ行く前と行ったあとで、こうも世の中が変わっていたなんて・・・。
帰国すると、さらなるハプニングに見舞われた。
円を持っていなかったのだ。
全財産をオーストラリアドルに替えて旅立ったのを忘れていた。
水の1本も買えない。
餓死しそうになったので、
先輩に頼み込んで学食でカレーをおごってもらった。
とにかく金がない。
あたりまえだけど、オーストラリアでは、円を使わなかったので、
向こうにいる間はどこか、おもちゃ銀行のような感覚で豪ドルを使っていた。
これまでの2ヶ月あまり、ゲームみたいな世界にいて、
急に現実に戻されたような気分になった。
それからというもの、
とにかく日雇いのバイトと部活を繰り返した。
本当は凱旋帰国気分で、
みんなにごつくなったとか、黒すぎとか言われたかったんだけど、
そんな余韻に浸っているヒマなど無かった。
でも知らない間にとても成長していた。
ある日、全日本室内選手権(現在の「全日本プール競技選手権」)が
近いということで、50Mと400Mのタイム測定を行った。
すると、38秒かかっていた50Mは32秒。
8分半かかってた400Mは6分20秒で泳げるようになっていた。
1年前、己を知らずにBコースで泳いで、
ソッコーでCコース行きを命じられていた自分が、
Bコースでも中位くらいまでに伸びていたのだ。
そしてやってきた全日本室内選手権。
俺には必殺技があった。
50Mマネキンキャリーで歴史は動いた。
(25M泳いで、沈んでるマネキンを引き上げ、残り25Mはマネキンを運びながら泳ぐ競技)
全ての人が、後半の25Mは仰向けになって、足を平泳ぎのようにさせながら
マネキンを運ぶのに対し、
俺はなんと、片手クロールのような体勢でマネキンを運んだのだ。
しかし遅い。
記録、50秒・・・。
マネキンにカラダを沈められるかと思った。
周りの失笑を買った。
世界大会で見た各国の選手はもっと上手にやってたんだけどなぁ・・・。
でももし、今後、マネキンを片手クロールで運ぶのが日常的になったら、
それはみんな、俺のマネっこということになるだろう。
パイオニアになれるだろうか。
そんな室内選手権も終わり、いよいよ新歓合宿が近づいてきた。
1年前、金城武のマネをして、黒い歴史を作った、あの白浜に、
あの白浜荘に行けるのだ。
しかも今度は先輩として。
中学・高校時代、まともに部活動をやってこなかった自分にとって、
初めての「後輩」が20人以上できたのだ。
今ひとつ接し方がわからなかったけど、浜説明では一人でも多く、
西浜に一緒に行きたいって子を作ってやろうと思った。
なんか、だんだん部活の流れがわかってきて、
なんだかとても楽しく感じられるようになってきた。
この調子で、夏の西浜に向けてやっていこう!