●いろいろ考えました-12
【日本書紀中の百済王の即位と崩御記事】
次のとおり、日本書紀の神功皇后摂政期後半から応神天皇治世前半にかけて百済王の即位と崩御の記事があります。
それぞれの記事は、西暦では250年~300年頃ですが、これに干支2運(120年)加えると、
370年~420年頃になり、三国史記の百済本記にある百済王の即位、崩御とほぼ一致します。
日本書紀では、神功後半~応神前半ですが、120年加えた年代を、春秋暦で修正した紀年にあてはめても、ほぼ応神の時代になります。ということは、この時代の他の外交記事も同様に考えてもいいのでしょうか。

神功55年(255+120=375) 百済の肖古王(近肖古王)薨ず。
神功56年(256+120=376) 百済の王子貴須(近仇首)、立ちて王と為る(史記では375)。
神功64年(264+120=384) 百済国の貴須王(近仇首王)薨りぬ。王子枕流王立ちて王と為る。
神功65年(265+120=385) 百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(阿華)年若し。叔父辰斯、奪いて立ちて王と為る。
応神 3年(272+120=392) 是歳、百済の辰斯王立ちて(385)、貴国の天皇のみために失礼し。…百済の国、辰斯王を殺して謝ひにき。
応神 8年(277+120=397) 百済記に云へらく、阿花王(阿華王)、立ちて(392)、貴国に礼无し。
応神16年(285+120=405) 是歳、百済の阿花王(阿華王)薨りぬ。天皇、直支王(腆支王)を召して、謂りて曰わく、「汝、国に返りて位に嗣げ」とのたまふ。
応神25年(294+120=414) 百済の直支王(腆支王)薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る(史記では420)。

応神天皇 [西暦368前半年~407前半年]治世40年(79春秋年)、66歳崩御 342年生 父仲哀当時23歳
空位   [西暦407後半年~410前半年]4年(6春秋年)
仁徳天皇 [西暦410後半年~434後半年]治世25年(49春秋年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
(ここの内容は、S.T.先生が開かれている古代史の教室で教わったものです。)