●いろいろ考えました-11-2

【倭の五王】

前回のリストから察すると、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略でしょう。

438年の「讃没し、弟珍立つ」は、宋は讃に対しての積りで「珍の続き柄」を尋ねたところ、倭の使者は、反正は履中の弟だから、「弟である」と答えた。それを宋は、珍は讃の弟と記録したのでしょう。

460年の遣使は済か興か紛らわしいところです。
462年の遣使は、本国から使者への天皇交代の知らせが間に合わなかったのでしょう。
477年は武です。
479年は、南斉王朝創立、502年は梁王朝創立の年です。
502年の武は、年代を当てはめると次のように武烈の時代になりますが、梁王朝では、従来からの武の積りだったのでしょう。
武烈の名前は、当時は、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)で、「武烈天皇」という漢風諡号は、奈良時代に淡海三船が付けたものです。

502年○武
武烈天皇 [499~506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳


この502年は、遣使したのではなく、梁の武帝が王朝を樹立した際に次の通り各将軍を一斉に新号したのです。
高句麗王 高雲     車騎将軍 →車騎大将軍
百済王  餘大     鎮東大将軍→征東大将軍
宕昌王  梁弥頭    安西将軍 →鎮西将軍
倭 王  武      鎮東大将軍→征東将軍
河南王  吐谷渾休留代 鎮西将軍 →征西将軍
これをみると、479年以降、遣使しなかったのか、天皇の交代は、知らされていなかったようです。
なお将軍の位は時代や王朝によっていろいろあるようですが、ここでは次のようです。
大将軍
驃騎(大)将軍
車騎(大)将軍
衛(大)将軍
征(東)(大)将軍
鎮(東)(大)将軍
安(東)(大)将軍
平(東)(大)将軍
(ここの内容は、S.T.先生が開かれている古代史の教室で教わったものです。)