広く考えれば、自身の親、配偶者、子供、兄弟姉妹だって他人と言える。それを家族といって他人と別にしようとするから話はややこしくなる。家族を含めて他人の心の中なんてわかるはずもない。同じような経験をしたことがあるとか身近で見聞きしたことがあったら、少しは想像したり、わかる気がするのかもしれない。

 

以前、このブログで「自分は他人にされて嫌だったことを自分は他者にしない、誰かが他の人にしていることで不快なことに思えたら自分は同じようなことを他者にしない。」といったことがある。これは自分の子供に対する道徳教育の基本的な考え方でもあった。

自分は教育現場で道徳教育を勧めたいと思うが、この頃、道徳というと戦前の全体主義的雰囲気を想起させるとして忌避する風潮がある。加えて教職員の勤務時間や業務に負担を強いるだけでなく、現代の子供たちに道徳教育が有効なのか疑問視されている。回りまわって家庭内でのしつけということになる。これは公が責任回避するための言い訳となる。

道徳観の醸成は社会全体、国全体で設計考案するものだと思う。道徳観は日本国憲法第13条が定める個人の尊厳(人格権)の尊重を基本にすべきもの。

 

家族の中にあって親子関係でも夫婦間でも兄弟姉妹関係でさえも1世代おきに問題が起きる。家族の誰かが過去に親、年長から受けた育児放棄、虐待、家庭内暴力の結果、新たにできた自身の家族に負の連鎖を繰り返すことがある。

義務教育の小学校や中学校で同級生の誰かが他の同級生をイジメることが発生する。他の同級生もイジメに参加する。他の同級生が不参加あるいはいじめられっ子を庇うとその子もイジメられることになるからだ。いじめっ子はボスを中心に多数で1人をイジメる。

社会において職場でも子供の世界でいうイジメ、パワハラ・セクハラ・マタハラ・モラハラなどのハラスメントなどが起きる。

 

家族、学校、社会(職場)どの場面でも共通しているのは外(第三者)から見えないところで起きるということ。被害者は自らが被害を証明できず孤立無援になる。被害はエスカレートする。

 

これらの問題の根本的な原因は加害者に被害者など相手を思いやる、気遣うという心情が不足あるいは欠落しているからと言える。なぜそのような心情を加害者は持ち得ないのかといえば、生い立ちや境遇による人格形成不全、成長していく中で人との関わり方や信頼の築き方を学ぶ機会が少なかったのかもしれない。いくつになっても言える。

 

誰だって自身がどんな性格でどんな考え方をしているか、そして自身の周囲もどんな人間かがわかれば、悪意をもって相手の人格を踏みにじるようなことができないはずだ。でも、それを平気で飛び越えてしまうのは相手を知ろうとしない最低の人間になってしまう。そんな輩にこそ道徳教育が必要だ。でも残念ながら手遅れ。

 

他人の心や気持ちを慮って尊重できれば、少しは被害者は減るかもしれない。