今年1月、自分が11年以上住んだ和歌山から故郷大阪に引き上げてきた。一番の理由は母がもう近所付き合いがほとほと嫌になった。近所の顔を見るもの嫌、近所と口を利くのも嫌、故郷の大阪に帰りたいといったことだ。

 

母は約20年余り前に父と隠居生活を送るのに一緒に和歌山に移った。

父の会社が飛躍的な成長を遂げた頃に母のために静かに余生を過ごせるようにと父が購入し、父母はマンション竣工時の第1期分譲でこのマンションの最初の購入入居者となった。最初は別荘として使っていた。その直後に父は事業が成功したことで驕り高ぶる。とんでもないくらいに羽目を外す。女を作る。腹違いの子を設ける。会社の金は経営者である父が使い込む。そして会社倒産、横領で逮捕不起訴、釈放された時には社会的にも経済的にも何もなかった。女の家に住み込んだ。

 

それから数年後、父は母のもとへ帰ってくる。さらに数年後、父母が和歌山に移住。この頃に心臓僧帽弁置換術2度、食道がん切除術1度受けた。3度の手術はいずれも12時間を超えた。2年半に3度の大手術で父はみるみるうちに弱ってしまい14年前に他界した。残された母は気丈にも1人ででも和歌山のマンション暮らしを死ぬまで続けていくと言っていた。

 

昨年10月、マンションの役員をやっていた自分と母の意見が分かれるようにするため、日頃同じマンションで母と少し世間話をする70代後半から80代半ばの年配女性たちが母に従業員の偽情報を流した。母も自分も別々にこの女性たちから見解を問われたが、あとで母と話しをすると自分と同じ意見をその女性たちに返事していたことがわかる。もう二人で呆れてしまう。

母が違うことを言っていれば、それを材料にして自分は母の意見をきかないのかとねじ込んでくるつもりをしていたようだ。ついに自分は母に手をかけた女性連中に激怒した。自分にならいくらでも喧嘩を受けて立って徹底的に懲らしめてやるが、陰で母にちょっかいを出すとは卑怯で許せなかった。そこまでやるのかという風にも思った。それからこの女性たちをク〇ババアと呼ぶことになった。いずれマンション自主管理組合シリーズで記すことになると思う。

 

母も長年近所ということもあって当たり障りなく付き合ってきたが、そんなく〇ババアたちが昨年夏頃には嫌で嫌で仕方なくなっていた。このマンションを終の棲家としていた母は息子の自分に昨年8月故郷大阪に帰りたいとこぼし出した。昨年10月半ば、マンション内でデマを流すのに母を利用したことが大阪への転居を最終的に決心させた。

 

昨年8月は管理組合運営が大変なときで自分はその頃から今年1月末に大阪へ転居するまで役員として管理事務所にほとんど詰めていたが、和歌山を引き払って母と自分の故郷大阪に戻ることのメリットデメリットを真剣に考えていた。

 

何と言っても母が帰りたいという希望を叶えてやることが最優先。その原因になっているく〇ババアのような雑音が入らないように穏やかな暮らしを守ってやること。妹や娘家族、母の実家も大阪にある。緊急事態なら誰彼なしに駆けつけてもらえる安心感もある。介護サービスが豊富にあることなどなど。

自分にも同じように父方も母方も大阪で親類縁者のほとんどが大阪、幼い頃から大学までの同級生もほとんど京阪神奈良にいる。だから旧交を温めることが頻繁にあるだろうと思っていた。

 

でも、21世紀になる頃には自分も含め離婚者は多いはずなのだが、自分の旧友には1人を除いて離婚者がいない。「あーそーぼっ!」と声をかけると、みんな口を揃えて「子供は独立して家庭を持っている。今は妻と二人でグルメしたり旅行したり、年に1度くらい同窓会で会おな」と言われて「仲良しでごちそうさま」と返すのが精一杯。

「自分だって子供は独立して家庭を持ってる。孫もいるぞ」と言いたいが、負け惜しみになってしまう。正直羨ましい(笑)。

 

自分のことだけを考えた時に和歌山にいたときはどうかというと、やはり飲み会や食事はマンション管理組合関係者としか行っていない。中にこの人だけはと思える人はいるが、その人たちのほとんどが気を許せない。今、思えば自分が話したことが誰かにその通り伝わっていたのか本当にわからない。言いもしてないことを付け加えられたり、まったく違うことにすり換えられたり、自分が伝え聞いた人のことを悪く言っているようにされて反感をもたれるようにされていたりと悪意に満ちている。飲んでいても自分が話したことと全然違う内容でいずれ伝えられてしまうのかと思うとやりきれなかった。

 

自分のことを第三者に伝える時に自身のことを言い訳するためなのか、自身を良くみせるためなのか、何のためにこんなことをする必要があるのかサッパリわからない。だからよく飲んだ人でも信用できなかった。和歌山では自分は誠実に管理組合の役員活動をしていたが、最後はある人を除いて他の人は役員を含めてまったく信頼できなかった。

 

結論としては自分のことに限って言えば、故郷大阪に戻ってきたのは大いに良かったが、予想より寂しい大阪生活が再始動したということになる。嬉しくもちょっぴり寂しい誤算だ。