戦争観、戦争観2では戦争原因や責任、大東亜戦争の呼称について触れた。さて、このブログでは本題である戦争観そのものについて自分なりの考えを記したい。
勝負事は勝ったほうがいい。自身が当事者でなくても、過去のことでも現在応援している個人や団体のことでも勝てば歓喜して痛快だ。負ければ腹が立つ。ただただ悔しい。これが勝負事というものだ。
しかし国家間の争いごとである戦争ではまったく違う。勝っても負けても国家による大量殺人だ。だから当然、単なる勝負事と同列に比べることは決してあってはならない。勝ったら良かった、勝てば官軍ですべて許される。負ければ戦勝国にも悪いところがあると短絡的な論理で片付ければ教訓や猛省を見失い暴走する。大日本帝国政府と旧日本軍のことだ。感情的に勝った負けたで戦争の歴史を振り返れば歴史修正主義という危険なアプローチに陥り、自身が持つ優越感や自国の誇りを満たすだけの自国中心的利己的な認識で終わってしまう。この考察法は本当に危ない。
戦争はゲームではない。生身の人間が殺し合う人類最大の悲劇だ。だから戦争は絶対にしてはならない。戦争は銃後の女性子供まで塗炭の苦痛を与える。戦争反対は人類普遍の原理であり論を待たない。
終戦直後、日本はGHQの指令で日本国憲法を草案する。敗戦を猛省し教訓として「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争放棄」の三原則を盛り込んだ憲法を公布施行し現在に至る。自衛隊は日本国憲法草案過程で保持解釈が可能になるように修正された。
日本国憲法前文を一部抜粋した。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
第9条(戦争放棄)は割愛する。
日本政府の公式見解では憲法9条が禁止しているのは「国際紛争を解決するための戦力」であり、「自衛のための必要最小限度の実力」はこれに該当しない。 自衛隊は「戦力」ではなく「実力組織」であるため、憲法9条には違反しない。
個人や家庭レベルで考えてみる。たくさんの人と通勤で広い歩道を歩いて突然誰かが殴りかかってきた時どうするだろうか。とっさに手や持っているバッグを盾にして自身の身体を守らないだろうか。自宅に強盗や空き巣が侵入しないようにカギをかけたり警備会社に警備依頼しないだろうか。この自身の手、バッグ、カギ、警備会社が自衛の手段になる。
では、国のレベルで考えてみる。憲法前文の中に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とある。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と言っても、現実に中国による南シナ海侵略・香港弾圧・尖閣諸島侵犯、ロシアによる北方領土占領・ウクライナ侵略戦争・日本領空侵犯など悪意に満ちた周辺国が存在する。到底平和を愛する諸国民といえず、いつ突然侵攻してくるかわからないまったく信用できない国だ。日本が憲法前文通り一方的に信頼したら日本の安全と生存を保持できると思うなんてお人好しの亡国になる。右の頬をぶたれたら左の頬もどうぞと差し出すのか。
だから領土、領海、領空に外部勢力が侵入または侵入の恐れがある場合はそれを阻止する実力組織が必要となる。これが自衛隊の存在理由だ。自分は自衛隊が必要不可欠で政府の公式見解を支持している。
自衛隊の活動は災害派遣、PKO、集団的自衛権、後方支援活動など役割を広げ変化していきている。
自分は自衛隊員への敬意、隊員の士気や身分保障のために9条改憲に賛成だ。
自衛隊員不足と言われているが、改正できたとしても士気が高い志願制のままで徴兵制や兵役が課されないよう工夫を望む。現在の日本を取り巻く国際情勢は非常に危うい。
改憲反対勢力は自衛隊は現行憲法のままでいいという立場だ。自衛隊がPKO、集団的自衛権、後方支援活動で海外に派遣されるとき、自衛隊に海外派兵という侵略戦争を想起させるような言葉を浴びせる。現在の自衛隊員だって命がけの覚悟をもって任務に臨んでいるのだから改憲して彼らに誇りをもってもらい隊員不足解消の一助にもしてほしい。
最後は国民が国民投票で決めるのだから。政府や国会の歯止めが利かず侵略戦争につながるような改憲なら国民は必ず否決すると思う。日本国民はバカでない。国民投票にゆだねようとしない改憲反対勢力は日本国民の賢明な判断を一番恐れているのかもしれない。
以降の話は次のブログ「戦争観4」に譲ることにする。