今朝、NHKニュースでデフサッカー日本代表を取り上げていた。デフサッカーとは聴覚障害のある人たちで行われるサッカーで、ルールは通常のサッカーとほとんどが同じ。「補聴器を外してプレーする」という独自のルールがあるため「音のないサッカー」という愛称で呼ばれている。

 

この代表監督は元Jリーガーで、監督に就任したのは聴覚障害がある小学1年生の息子がきっかけ。息子がデフで、耳が聞こえないで生まれたときに、なんとも思わなかったというか、それが個性だと思った。息子と過ごす中で、耳が聞こえないことも個性のひとつだと考えるようになったという。

その中で監督が聞こえぬ”個性“を強みに、チームも選手も工夫しだいでその個性を生かして、さらに力を伸ばすことができると話していた。

 

障害特性とは、身体的、知的、精神的な障害に関する特性や特徴のこと。これらの特性は、個人の機能や能力に影響を与えることがある。例として身体的障害、視覚障害、聴覚障害、運動機能障害、知的障害、学習障害、発達障害、精神的障害、精神疾患、情緒障害など。


個性とは、個人のユニークな性格や特質、行動パターンを指す。これは、遺伝的要因、環境要因や経験によって形成されるもので、個人の独自性を表す。個人に具わり、他の人とは違う、その個人にしかない性格、性質、個体に特有な特徴あるいは性格。一般的にその人、個人にしかない人格、人間的魅力をさすことが多い。

 

そこで障害者支援の現場から次のような話を聞いたことがある。

障害に生まれてきたのが個性なのか?中途障害の人も個性なのか? 病気や障害にならない人はいないのではないか。混同して捉えられ、障害を持つ支援者も障害も個性と言われたこともある。どうしてもそのような「個性」という言葉の受けとめから、「障害は個性」というと、「障害はその人個人の問題」というような理解に繋がっていくのではないかという危惧を抱く。「障害は個性」というと、障害をあいまいにしてしまうことになるなど。

 

自分もストレスという環境要因で軽度の後天的精神障害を持った。もう障害者手帳も交付してもらえなくなったが。中学生の頃、全校生徒を講堂に集めて、障害者支援に携わっている方の講演があった。断片的にしか記憶にないが、その講師の方も子供が身体障害者だった。障害者に対する基本的な考え方、接し方ということをまだまだ子供の中学生に向けて話してもらった。

障害者を見て可哀そうと抱く感情は間違っている。障害とは生き辛さ、生活のしにくさのこと。もっと言えば、日常生活に困っていること。そのことに支援(手助け)することが大切と。ここだけが五十数年たった今も微かに記憶に残っている。

 

サッカーの監督さんの話、障害者支援の現場の話、自分も障害者福祉施設の現場を垣間見てきた者として感じることは定義づけのように障害特性と個性を峻別する必要はないと思う。第三者に広く伝える時はキチンと定義づけ通りやればいい。もちろんそこから次のところに伝わっていくということもある場合には特に。

しかし、今回のサッカーの例や支援現場では障害者と強い絆で信頼関係ができている場合、本人にそのような言葉を使うことによって気持ちを和らげてあげられるのなら、そんな言葉が出るのもたまにはいいのではないかと思う。言葉1つで大きな責任を背負うことがなければなおさらだ。

 

支援の世界では独特の言葉がある。きっと支援員資格取得のための教則本や講義の中できちんと定められているのだろう。傾聴、共鳴、共有、共感、配慮、寄り添う、向き合う、いきがい・やりがい、居場所、そして支援。

 

現実はたいへんだが、支援されるほうも支援するほうも、その在り方に正解も絶対もない。今後も支援について模索は続くでしょう。障害者とその支援員すべての人に敬意を表します。

 

デフサッカー日本代表、頑張れー! 世界相手に暴れまくってやれ!!