自分は高校3年生の頃から亡父を人生の反面教師にして生きてきた。そして30歳代になる頃には反面教師にしたことに何ら間違いでないことを確信できた。

10代で何をして生きていきたいなんてほとんどの若者はわからないと思う。自分もそうだった。亡父への反動が自分の生き方を20代前半で決めさせた。

自分よりもっと大変な境遇にあってとんでもない苦労をする人達はいくらでもいる。だからそんな人達のために波乱万丈という言葉があるのかもしれない。自分にはそんな言葉は当たらない。波乱万丈という言葉に叱られる。

 

ただ自分の中では思いのほか大変な人生だったとこの歳になって思う。なかなか思うようにいかないのが人生というもの。人生は悲しいこと、苦しいこと、辛いことのほうが間違いなく多い。だから嬉しいこと、楽しいことも感じられる。このささやかな喜びが何よりの安らぎになる。

大学時代に手当たりしだい本をたくさん読んだ。当時ネットがないから情報は本からしかなかった。乱読だった。その本の中から常に自分の心に留めおいて戒めや励ましになる言葉を自分の座右の銘とした。座右の銘は3つある。以前にも少し記した。

 

1. 彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず

プロフィールにも掲載しているが、中国の古書孫子にあることわざで相手をよく知り、自分を客観的に見つめて自身のことをよく知れば、百回戦っても負けることはない」という意味。相手のほうがある時点の実力が上回っているとわかっていれば喧嘩しなければ負けないということ。孫子にはおなじみの「三十六計逃げるにしかず」という一文がある。万策(三十六計)尽きて相手に負けるとわかっていれば喧嘩せず逃げるのが最善の策だということ。この一文と表裏一体だ。

現代社会においても最低限競争原理が働く場面では判断根拠となる。

 

2. 平々凡々

長い間生きてきて、身に染みる尊い言葉。
平凡に生きることがどんなにも難しいことか思い知らされる。いくら自分自身の健康、事故、事件に注意していても、自分自身に降りかかれば、平凡普通でいられなくなる。同様に自分自身は何もなくとも、自分の近しい人たちに傷病、事故事件など何かあれば、巻き込まれて平凡普通でいられなくなる。
だから、これから人生を過ごしていく中で自分自身にとって「平々凡々」はとても大切な道標。平々凡々でありたいと心から願う。

 

3. 諸行無常

仏教の根本的思想でこの世のすべての存在や事象は移り変わり一瞬(ひととき)もとどまっていないこと。永遠不変のものなどないということ。人はいつか死ぬ。物事もいつかなくなる。

 

ここまでの人生にはキチンとけりをつけたつもり。元々、目立つのが嫌い、人見知り、人の好き嫌いがあったのに皮肉にも人と多く接する職責だった。そのせいで出会いのあった中で気にかかる人のことはただただ知りたいと思う。今でもそうだ。人間観察でもなく染み付いた職業病でもない。プライバシー侵害に気をつけながら、どうしてこの人はこんな考え方をするのかと素朴に純粋に知りたい。

 

これからは一度しかない残りの人生、神様に召されるまで悔いのないよう心許せる人達を思いやりながら穏やかでのんびり楽しく生きてゆきたい。体はポンコツなりに元気でありたいし心は若々しくありたいとも思う。

そして時と社会の流れを一歩引いたところから眺めて生きていきたいと強く思っている。

 

生きているのではなく何かに生かされている人生、もうこの歳なら風の吹くまま気の向くままと願ってもバチは当たるまい。これからそんな生き方をしていきたいと祈るような思いでつけたアカウント名が「風に吹かれて」だ。

肩の力をぬいて深呼吸して暮らしていこうと思う。