『ピータールー マンチェスターの悲劇』 | こめっこブログ

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ずぼらに おおざっぱに てきとうに なにか書こうかなという程度、、、以外になんにも考えていません。

1819816日に起きた「ピータールーの虐殺」事件からちょうど200年。いつもタイムリーなものに乗り遅れてしまう私にしては珍しく、日比谷シャンテシネで『ピータールー マンチェスターの悲劇』を観た。タイトルに出ちゃっているので、何の予備知識のない観客も「悲劇を観る」ということはあらかじめわかった上で、悲劇的な出来事までの2時間、じっと見守ることになる。

 

ネタバレはあります。

 

 

 1815年のウォータールーの戦い従軍し、PTSDを患っているジョゼフが、故郷のマンチェスターに徒歩で帰還する姿から始まる。その彼が、選挙制度改革を訴える1819816日のマンチェスター聖ピーターズ広場の集会に参加し、そこで虐殺事件に遭うまでの物語。全編ドキュドラマ的なリアリズムで描かれる。マンチェスター市民(運動に参加する男たち、婦人会)およびそれを鎮圧したい支配階級側と、さまざまな立場の人達がことごとく一枚岩ではないことを映し出しつつも、決して安易な「両論併記」とならず、マンチェスター市民の側に寄り添うことを忘れずに描き続けるところがマイク・リーのヒューマニズム。しかも同時に、市民の期待がことごとく裏目に出て、何の救いも用意されないのがマイク・リーのリアリズム。18世紀の産業革命の一大拠点だったマンチェスター綿織物産業の不況や、穀物法の重税で、日々の糧にも困るくらいに貧困あえぐ市民が、男子選挙権拡大と土地の議員を議会に送ることを求める平和的な集会を計画する。まさか殺す気満々の軍隊が斬り込んできたりはしないだろうという彼らの期待は元々もろくて、あまりにもカンタンに打ち砕かれる。あげく事件後、摂政王太子(『国王ジョージの狂気(英国万歳!)』のジョージ三世の息子)は、事件が起こった町の名前も覚えない。その名を記憶する仕事は、この映画を観た観客に委ねられる。

 

この事件の今日性については、すでにこの記事で述べられているのでそちら(↓)に譲り、私の好きな俳優さん方について書いておきたい

1819年の「ピータールーの虐殺」、1989年の「天安門事件」、2019年の現在進行中の「香港のデモ」。この3つを200年という長期スパンで捉えると見えてくるものがある。」英国の民衆弾圧、ピータールーの虐殺を知っているか

https://news.biglobe.ne.jp/international/0730/jbp_190730_8006500785.html

 

地主でありながら社会運動に身を投じる名演説家ヘンリー・ハントに、当代きってのシェイクスピア俳優を持ってきたキャスティングの見事さ。ロリー・キニアが目当ての私にとって、エンドロールで彼の名前がトップに流れたことは、本当に嬉しいことだったというか、ハッキリ言って、バッドエンディングなのにもかかわらず超ポジティヴに興奮した。キニアのハントは、もうほんとにイギリス的と言いますか(笑)、雄弁なレトリックがうさんくささに直結するさまを見せる。ジコチュ~のナルシストで、人間的には絶対に信頼できなそうなのに説得力だけはめちゃくちゃこもる演説という、イギリス的なねじれを体現していて、本当に見事だった。そして、クライマックスシーンで、ヘンリー・ハントの演説を聴かせようとしないマイク・リーのイジワルさ(笑)

 

 

(劇的で雄弁な名台詞が常に同時にうつろでまやかしに満ちたものでもあるという皮肉は、ラスト近くで摂政王太子に事件の報告をする内務大臣が発する、『リチャード二世』ジョン・オブ・ゴーントの名台詞並みの台詞を聴いてもわかる。)

 

 

ローリー・キニア以上の存在感は、勿論主役のジョゼフを演じるデイヴィッド・ムーアストで、NT Live 『アレルヤ!(Allelujah!)』で印象的な非正規労働者の介護士を演じていた。この『アレルヤ!』も、老人ホームにおける犯罪と医療制度の限界を描いた諧謔的老人ミュージカル(←語弊)の社会派劇で、この映画と2作連続で観たことで、彼の姿はワープアの若者のシンボルに。ワイエスが好んでモデルにしそうな、ぼんやり立っている後姿だけで絵になるムーアストの魅力を、マイク・リーは活かし切っている。その彼が、「なぜ僕たちは何も知らなかったんだろう?...この映画に関わって、なによりもまずこの疑問が沸きました。こんなに大変な事件を、これまで教わったことがないなんてあり得るものなんだろうか、と」(プログラムより)という談話を残していて、イギリスの歴史教育も日本に負けず劣らず問題ありありなんだな~。

 

さらにデイヴィッド・ムーアスト以上の存在感は、ジョゼフの母親・ネリーを演じたマキシン・ピーク。この人もシェイクスピア役者で、ムーヴメントに沸き立ち未来を信じる男たちには見えていない不安をハッキリと予感する賢い女性を演じる。苛烈な現実を認識しながらも、ピータールー前夜、幼ない子供を寝かしつけて、「1900年には、この子も82歳になっているのよね」と言う、この彼女の台詞に深く感動した。ちゃんと未来を見ている人の強靭な精神性に、まったく久しぶりに触れた気がしたからだ。ラストシーン、神父の唱える「主の祈り」に対して「アーメン」と唱和することを頑なに拒んだまま、無言でこちらを見据える彼女の強いまなざしで、この映画の全印象が決定される。この彼女のまなざしは、この映画から観客が受け取れる唯一の「確かさ」なのではないだろうか。

 

まあ、あと個人的にツボだったのは、誰よりもうさんくさいスティーヴン・ワイトさん(日本人が最初に知ったのは、『シャーロック』のあの人、って感じ?)。ニコ・ミラレグロさん(『スパイクアイランド』の人)をけしかけて以降、突然奇妙に出演シーンがなくなるのはなぜ?!?!?!?!もう、ほんと、憤慨しちゃう。でも、この二人のシーンもとっても緊張感・緊迫感・ガチンコ感があって、よかった!!結局単なるイギリス若手俳優好きでスミマセン