米ナショナル・フットボールリーグ(NFL)の巨額の契約金に背を向けて、陸軍レンジャー部隊に入隊したパット・ティルマンがアフガニスタンで、戦死した。27歳だった。



 自分はこの知らせを、陸上自衛隊の駐屯地内で耳にしました。      
 



 彼は母国では経済的に恵まれ、日曜日のスターだった。 チアリーダーやファン、リポーター達に囲まれた試合を翌日に控え、一拍200ドルのホテルのベッドで休んだものだった。

 だからこそ陸軍レンジャー部隊軍曹パットティルマンは、旧支配勢力、国際テロ組織アル・カーイダの兵士が潜むアフガニスタンの山奥にいたのだ。3週間前に米国を離れ、1つ下の弟ケビンと一緒に、タリバンのボスやビンラーディンの捕獲作戦の参加していた。



 世界貿易センターが燃えたもっと前、1996年ー97年にアリゾナ州立大学のLBだった頃から、試合の前夜ベッドの上で、同僚が考えも及ばないことに、思いを巡らせていた。 「フットボール以外にやるべきことがある」 「社会に貢献し、人々を助けたい」 

 2001年9月11日のあの日の朝。インディアンス傘下のマイナーの内野手だったケビンから電話がかかってきた。「テレビをつけて」。2機目の飛行機がビルに突っ込むのを 生の映像で見た。その翌日、パットは取材に対し、「この惨事と比較すると、フットボールはどうでもいいことだと感じる。祖父は真珠湾で戦った。多くの親類も戦争に行き、戦った。それなのに自分は何もしていない」。

 ケビンは、大リーグ昇格を諦め、レンジャー部隊への入隊を決意した。しかし、パットが同じことをするとは、誰が想像できたろうか。 所属するNFLのガージナルスとの2002年からの3年総額360万ドルの契約をけって、年収1万7316ドルのレンジャー部隊に入隊し、アフガンに行くとは。だが、彼にとっての答えは違う。「誰も俺を止められない」

 




大学を優秀等で卒業した。ダウン症の学生を友人に持ち、哲学的な討論も好きだった。友人をかばうために人を殴って訴追されたこともある。プレーも素晴らしく最優秀防御賞を獲得し、伝統のローズボールに出場している。1998年ドラフトでは241人の内226番目の指名。2000年には224タックルのチーム記録をマークした。

チームは負け続けたが、ラムズへの5年900万ドルの移籍話を断っている。




タリバン支持者の部族民がレンジャー部隊を案内する為に一緒に車に乗り込んだ。

 タリバン筋が後で語ったところによると、それが罠だった。アメリカ軍の報告によれば、レンジャー部隊は車から飛び出し、走って敵に突撃した。パットは突然倒れ、虫の息になった。パットは4日後にケビンに付き添われて無言の帰国をした。ニュースは全米を駆け巡り、自分の夢を全て犠牲にした男に、称賛、尊敬が交錯した。

 夜を徹しての追悼が行われ、大学とガージナルスで本拠地だったスタジアムでは、風船や花、テディベアがパットの写真の前の供えられた。

 


 ガージナルスは、新スタジアム前の広場に彼の名を付ける事を決めた。






岩倉健伸のジャスティスぶろぐ

写真

パット・ティルマン







この誇り高き本物の戦士に心から最敬礼致します!


そしていつの日か、あなたの伝えたかった思い、魂を映画にしたいです。



その時は、自分、岩倉健伸がパットティルマンさんを是非、演じさせて頂きたく日々精進してまります。



パットティルマンさん、貴方の誇り、魂は、永遠に不滅です。



ファイトフォージャスティス!