元々身体もあまり強くなく、ここ最近は
入退院を繰り返してはいたので
元気モリモリばあちゃんイメージはないのですが
「ちょっと早かったんじゃない?」が素直な気持ち。
そして、父から聞いたのですが
今日12月11日は祖母の80回目のお誕生日だったようです。
わたしは正直、祖母の誕生日もハッキリとは
覚えておりませんでした。
12月という記憶はあったものの
日にちや年齢までは曖昧なままで
今まで目を見て「おめでとう」と伝えたこともありません。
母方の祖父母は、一緒に住んでなかったものの
いつでもわたしの味方、SOSを見つけてくれる人であり
誰よりも可愛がってくれました。
祖父母というより、「大切な人」というんですかね。
なので祖父が亡くなった時は酷く落ち込みました。
祖母はまだ健在なので、今だに逢いに行くと
笑顔で抱き合います。
ですが、父方の祖父母とは
4歳の時に祖父母の家に引っ越してきて
同じ屋根の下で暮らす中で
今だに許せないことばかりが記憶にあります。
なので、わたし個人の感情では
一緒に住んでいた祖父母からの精神的苦痛により
「祖父母は孫が可愛くて仕方ない」という印象は
ひとつもありませんし
「おじいちゃん子、おばあちゃん子」という言葉が
は?なにそれ。的な感覚でした。
近年、虐待という言葉がクローズアップされておりますが
当時はなかなかそんな言葉もなく
「躾」として言われておりましたので
父母も何も言えなかったようです。
父方の祖父は、病気のため施設に何年も居ます。
もう会っても家族も認識しておりません。
わたしの中でも過去がトラウマ化しているのか
なにもできない祖父を前にしても
今だに身体が硬直しますし、呼吸も苦しくなります。
祖母に対してもそう。
目を合わせるのが怖くていけませんでした。
ここ数年は目を見て話した記憶はほぼなく
テキトーな返事しかしておらず
正直、話すらまともに聞いておりませんでした。
病気が進行していると聞いた時も
「早くお迎えがくればいいのに」と
今となれば親や周りのことを考えず
心の無いことを思っていました。
祖母は身体はそんなに強くないものの
口や態度だけは威圧的で気の強い女性だったように思います。
ですが、裏では 強気で居らざるをえない状態だったことも知りました。
わたしの父は3人姉弟の真ん中っ子なのですが
父のお姉さんは若くして亡くなられてます。
わたしも母になり、我が子がこ憎たらしい時もありますが
いざ、息子達と一生会えなくなる と考えると…
というか考えたくもないですが
自分より我が子が先にめされる。
そんな一番苦しいことはないと思います。
なにも言えない状態になると思いますし
でも、前を向かなきゃいけない状態
その苦しさでもがいて必死だと思います。
祖母はその経験から、やはり強気で居ることでしか
自分で立っていられなかったのかな。とも思います。
「早くお迎えが来てくれたらいいのに」
なんて言っておきながら
いざ冷たくなった祖母を目の前にすると
実感もわかず、今だに夢の中にいるようです。
実は、数日前に実際に
祖母が亡くなった夢を見ていたので母に伝えておりました。
最期に祖母と会話をしたのは数週間前。
同じ町内ながらも、お見舞いにも行かず
退院して家に居た時にもろくに挨拶もせず
話しかけられても流すような返事しかしていなかった。
人生の中で後悔というものは何度も経験して
わかっているはずなのに
人は悲しいかな嫌な思い出のほうが
記憶に残りやすいと聞いたことがあります。
だからこそ、小さな幸せ・感謝なことに
目を向けなければならない。
わたしが病気になったとき陰では心配してくれてたこと
痩せて行くわたしに食べきれもしない量のお菓子を用意してくれたこと
祖母は若かりし頃、美容師でしたので
わたしが美容学校へ行くと進学を決めたとき
陰ではとてつもなく喜んでいたということ
色々なことを、最期の最期のお別れの時までに
思い出そうと思います。
祖母の笑顔を。
祖母との色んな記憶を。
1つだけ言えるのは
お父さんを生んでくれて育ててくれて
本当にありがとう。ということ。
お誕生日に、大切な娘(わたしにとって伯母)と会えたかな?
笑顔で会話できてるかな?
病気の苦しさから少しでも解放されたかな?
どうしようもなく、ろくでもない孫だったけど
どうかお空から、父と母や私達を見守ってください。
おばあちゃん、ありがとう
どうか心安らかにお休みください
不謹慎かとはおもいますが
おめでとうを伝えたことがなかったので
最初で最後の「おめでとう」をblogにて
残させておいてください。
