「スピリチュアル」な集まりで、時々、
「神さまがいるなら、なぜ、この世の中で、戦争とか人殺しのような、『悲惨』な出来事が起こるのでしょうか?」
という質問が出されることがありますよね。
それに対する僕なりの回答は、
以下のようになります。
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貴方は 自作自演の「お芝居(映画)」の中の登場人物です。
お芝居の中の、あるキャラクターを演じている役者さんです。
そして、この「物理的リアリティ」は、お芝居が(一時的に)演じられている舞台です。
「お芝居」が終われば、貴方は 舞台から降りて、そのキャラクターを演じることからも解放され、「ふだんの自分」「素の自分」に戻ります。
(そして、「素に戻った貴方」は、また次は、どのようなスクリプトの「お芝居」の、どのようなキャラクターを演じるかを検討し始めることになります。)
ただ、
普通の芝居と違っているのは、キャラクターを演じている貴方が、
自分が「一時的にそのキャラクターを演じている役者」だ
ということを忘れてしまっている、ということです。
その「キャラクター」が 「自分のすべて」だ
と思ってしまっているということです。
その舞台の上だけが「自分の存在できる世界のすべて」だ
と思ってしまっているということです。
その舞台を降りて、「素の自分」に戻ることがあるんだ、
ということを忘れてしまっているということです。
さらに、この「お芝居」が、実は自作自演のものだ
(=自分が作ったもので、そこで演技をすることも自分で決めたことだ)
ということを忘れてしまっている、ということです。
「お芝居」を面白いものにするためには(ワクワクするものにするためには)、
そのストーリー(台本)を「山あり谷あり」のストーリー展開にするのが、通常です。
主人公を いろんな「困難」「試練」「つらい目」に遭わせて、
その「試練」を乗り越えるというストーリー展開に設定するのが、通常です。
(「主人公は幸せです。ずっと幸せです。一生幸せでした」だけのストーリー展開じゃ、
ふつう、「お芝居」として成り立たないですよね(笑))
ですので、この「物理的リアリティ」において、
貴方が なんらかの「困難」「試練」「いやな事柄」を体験するのは、
ある意味、「台本どおり」だと言えます。
貴方が主人公である「このお芝居」を面白いものにするために
(それだけいっそう価値あるものにするために)必要な、
台本上の設定である、と言えます。
ただ、「忘却状態」にある貴方は、
時に、それを「楽しむ余裕」を失ってしまうかもしれませんね。
(舞台に立つ前の貴方は、劇中、貴方にそのような「試練」がふりかかることに同意していたわけですが、
いったん舞台に立つと、貴方は それが「同意の上」の出来事であることを忘れてしまっています。
受身的に、「どうしてこんなひどいことが自分の身に起こるんだ」と、「被害者」的な受け止め方をしてしまうかもしれませんね。)
考えてみると…
自分が台本を演じていることをわかっている役者さんが、
「いや、自分はお芝居の中で、失恋したくない」
「お芝居の中で、大病を患ってつらい思いをするなんて いやだ!」
なんて、フツー、(ストーリーの進行上、そのような「試練」の設定も必要だとわかっているなら)言いませんよね。
→「お芝居」を演じ終えて、舞台から降りて「素の自分」に戻った貴方(の状態)が、
「たましいとしての貴方(より高次の貴方)」だと言えます。
→また、貴方の演じている「お芝居」を、観て楽しんでいる(観客席で鑑賞している)「観客」も、
「たましいとしての貴方(より高次の貴方)」だと言えます。
→さらには、貴方の演じている「お芝居」の台本(ストーリー展開)を決めて、貴方がその「お芝居」の主人公になることを決めたのも(「演出家」として機能しているのも)、
「たましいとしての貴方(より高次の貴方)」だと言えます。
貴方が、「たましいとしての貴方」の観点から、
この「物理的リアリティ」で生じる出来事を眺めることができるなら、
「観客」として それらの出来事を味わうこと(「面白く」感じること)も
(もっと)可能になるかもしれませんね。
(「劇中の登場人物になり切って」しまって、
「自分は 本来、役者である」ことを忘れてしまうのではなくって、ネ😃)
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再告知になりますが、
上記のような話も、
10月16日(土)に開催するお話会「エササニ文明からのメッセージ」で
する予定です。
興味のある人は、どうぞいらしてください。