今日の記事は、バシャールについての内容ではありません。

 

今朝、街中を歩いているときに、ふと、僕の心に浮かんできたことが、

面白かったので、

新鮮だったので、

備忘録代わりに記事にしています。

 

 

物理的存在である僕が、いなくなっても、ぜんぜんかまわないな、って、

ふと思ったんですよね。

これまでとは、

違った感じで、新しい感じで、

そう思ったんです。

 

(実際には起こる可能性は高くはない事柄でありますが (^^))

もし、仮に、物理的存在である僕の部分がいなくなることが、
例えば、地球の集合意識(とか銀河系意識とか)の進化にとって益になる、っていう状況が

発生するとしたら、
物理的存在の部分がなくなることは、
ぜんぜんかまわないな、って(なんか知らんけど)思ったんですね。

なくなるように、喜んで、するだろうなと思ったんですね (^^)

 

そういう場合、

上に「なくなる」と書いたことは、

「喪失」でも「消滅」でも「減少」でも、全くなく、
総量からみると、僕の存在感は増していることになるんですよね。

 

こういうふうに言っているとき、

僕っていう存在のフォーカスは、物理的存在のほうに(重心は)なく、

ハイヤーマインドのほうに(あるいは「オーバーソウルのほうに」?)

あるんだろね。

僕は、非物質的存在のほうを、より、「僕だ」と思っている。


 

「死んでもかまわない」ということ自体は、これまでも思っていることだけど、

「喪失」「消滅」「減少」という感じを伴わず、

かえって、「進化」「増加」「喜び」という感覚を伴って、

「死んでもかまわない」と感じたことは、
それほどなかったように思ったので、備忘録にしてみました。

 

 

もちろん、「死ぬ」ときに、

物理的に、痛い、とか、苦しい、とかいう体験は、prefer しないので(笑)

そういう「痛い」とか「苦しい」とかがなければ、の話だけどね(笑)

楽に「死ぬ」ことができるなら、っていう話ね(笑)


あと、

「死ぬ」っていう言葉遣いにすると、

この言葉がまとっている「手垢」も、一緒に付いてくるから、

「物理的存在の部分がなくなる」とか、

「移行する transition」みたいな表現を使っていくほうが、

これからの時代には、よいかもしれないですね (^^)




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