「加害者」と呼ばれるに至った人は、
往々にして、
その人が「加害者」になる前に体験した「被害」の
「被害者」であることが多い。
(昔に受けた「被害」のせいで
「加害」をするに至ったというケースも多い。)
さらに、その人に「被害」を与えた(その人に「加害」を加えた)、その前の「加害者」もまた、
その前の前に加えられた「被害」の被害者であることが多い。
そのように、
どんどん、
どんどん、
どんどん
考えていくと、
この世に人為的に生じている「とてつもなく、ひどいこと」を引き起こしている人たちも皆、
もしかしたら、
全員、「なにかの被害者」であると言えるのかもしれない、
と思い至る。
どんな「被害」を受けている「被害者」なのかというと……
→「命は永遠である」
と教えられていないことの「被害者」だったり。
(→だとしたら、私たちは、みな、生まれ来る子どもたち皆に「命は永遠である」と教える必要があるのかも??)
→「すべてはつながっている」 「『私たち』と『彼ら』は別々の存在であるようにみえるけれど、実は別々ではない、ひとつの存在なのだ」
と教えられていないことの「被害者」だったり。
(→だとしたら、私たちは、みな、生まれ来る子どもたち皆に「『私たち』と『彼ら』は実は別々ではない、ひとつの存在なのだ」と教える必要があるのかもしれない??)
→でないと、また新たな「被害者」が生まれ、
その「被害者」が、新たな「加害」を引き起こしてしまうのかもしれない。
私たちは、みな、どこか「加害者」であり、かつ、どこか「被害者」であるのかもしれない。
だれもが、実は、「加害者」と「被害者」の両方の側面を持っているのかもしれない。
私たちが、そのような認識を持って、
そうして、
「だれかほかの人」に、なにかの責任を「押し付ける」ことをやめて、
「こんなひどいことが起きているのは『奴ら』のせいだ」と、「他人のせい」にすることをやめるようになれば、
私たちは、「被害」と「加害」のループから抜け出せる。
「被害」と「加害」の二分法から抜け出せる。
自分の世界に、自分で責任を持つようになる。
自分の存在に、自分で責任を持つようになる。
自分の世界をつくっているのは
ほかのだれでもない「自分なのだ」と
認識するようになる。
この世界の「現状」をもたらしているのは(よきにつけあしきにつけ)
ほかのだれでもない「自分なのだ」と
認めざるをえなくなる。
そうして、
「だれか他の人のせい」にすることは、
「もう、やーめた💚」
というふうになる (^O^)(^O^)(^O^)