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「あなたに元総理大臣を殺してほしいのです」と松島菜々子似がにこやかな顔をして森岡先生に話しかける。森岡先生は縄で逆さ吊りにされている。
森岡先生はプロのスパイではないから拷問には慣れていない。だから何でも言うことをききますと言っているのだが、松島菜々子似のこの頼みはきけない。たとえ元総理大臣を殺したとしても、あとで自分がこっぴどく殺されるだけだ。
「頭に血が上り過ぎたら死ぬわよ」と松島菜々子似は色っぽく森岡先生の体を触る。逆さ吊りになっているから気持ちいいどころではない。
ちょっと調子に乗ってあちこちの女性とやり過ぎたと反省している。今回の事件が終わったら比叡山に出家でもしようかと考えている。
だんだんと意識がなくなってくる。きっと自分は比叡山に行く前に死んでしまうだろう。たとえ生きていたとしても比叡山には行かないだろう。森岡先生は面倒臭がり屋なのだ。
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ニーナは倉橋まみの家を訪ねた。
「森岡先生はいないですよ」と倉橋まみは冷たく言い放つ。
「どこに行ってるの?」とニーナはどうもまみに気圧されている気分で小さくきく。
「お仕事じゃないかしら」
「塾には出勤していないようよ」
「森岡先生の本職は塾の先生ではないわ」
「そうなの?」
「そうよ。森岡先生は宇宙意識の職員よ。正式に採用されたの」
「そんな話はきいたことがないわ」
「秘密なのよ、これは」
「じゃあどうして今わたしに言うの?」
「あなたがきいたから」
「秘密なら言ってはいけないでしょう?」
「そうだわ。でもこうしてたまに漏らしてみると秘密も楽しいわ」
「いいかげんな人ね」
「賢い人と呼んで」
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社長田中は正式に無職田中になってしまった。それと同時にまいこのアパートに転がり込む。
まいこは中華料理屋で働き始めた。無職田中はハローワークに職探しに出掛ける。
二人の夜は幸せだった。会社員田中であった時にはこんな幸せを味わったことはない。ただ単に会社員であっただけで、彼は徹頭徹尾孤独だった。
どこに行っても通用する人間というのが本当の達人だとどこかで話にきいた。達人は浮浪者の人々の群に入っても馴染んでしまうらしい。
人間の究極の目標はそうした達人になることだ。これが出来れば狼たちの中にいても食い殺されないと『子連れ狼』に書いてあった。
無職田中は達人ではないから、行くべきところを選ばなくてはならない。達人の真似は達人になってからすればいい。達人でない今は達人の真似はしない。
何でも出来ると思うべからず。
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レールボードは久しぶりに詩を書いた。拳銃を持つようになってきな臭い気分になっていたので、少し文化の香りで薄めようと思ったのだ。
文化は決してなよなよとしたものではない。文化は戦いなのだ。社会との真剣勝負が文化なのだ。
暴力で人を押さえることはたやすい。たいした考えがなくても体を鍛えることは出来る。ただただ毎日同じ鍛練をしていればいい。
文化の鍛練はそう闇雲に出来るものではない。考えのない鍛練はただ精神を摩耗させるだけだ。
拳銃を持った自分は文化から離れたのではないかと不安だった。同門激三郎の暗殺を成し遂げれば詩人にしてあげると約束されたが、殺人をしたあとに詩人になった人というのは話にもきいたことがない。
矛盾を嫌うな、と天の声がきこえる。
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ーー大きな声で空は青いと言おう
大きな声で夜は暗いと言おう
とにかく大きな声で
大きな声で
おなかの皮がビリビリと震えて
肝があたたかくなる
足は胸まで上がり
宙に飛んで飛んで
太陽をこの手に握り
あちい、あちいとやけどして
天の川で手を冷やす
眠さなんか吹き飛ばして
ピッピッピッピッ
口笛を吹いて
下手でも何でもいいや
とにかく楽しければ
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マライア・キャリーが同門激三郎の家のチャイムを鳴らした。パーティーを開くので歌手として来てくれとのことだった。
マライア・キャリーは歌手としての自分の記憶を失ってしまった。だから最初は断ったのだけれど、森岡先生がいるというのをきいて来ることにしたのだ。
森岡先生のことはしっかり覚えている。自分をこのような清々しい気持ちにさせてくれた恩人だ。その恩人が今日処刑されると三時のニュースできいた。何とか助けなければと考えた。
部屋に通されるとコーヒーが出た。
「わたしはコーヒーが苦手ですの」とマライア・キャリーは同門激三郎の手下に平然と言う。「トマトジュースが飲みたいわ」
同門激三郎の手下は近くのセブンイレブンまでトマトジュースを買いに行く。マライア・キャリーには拒絶出来ない何かがある。歴戦のつわものでも頭を下げる何かがある。