妄想先生 第二十三回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 

 倉橋まみも失神してしまった。姉妹が岩場に並んで横たわる。姉妹ともどもものにするとは、森岡先生はよっぽどのワルだ。ただ彼には悪いことをしようという意識はない。すっかり妄想の嵐の中に取り込まれているのだ。

 妄想というのはマイナスのイメージがつきまとうが、本人にとっては必ずしもマイナスではないのだ。だから厄介だ。人の説得くらいでは取り去ることは出来ない。

 森岡先生は今や大有名人だ。彼自身の頭では彼は有名人であり、世界はすっかり彼の頭の中におさまってしまったから、すなわち彼は有名人なのだ。

 温泉での乱痴気騒ぎは終わってしまった。男も女も疲れ切って眠りに入っている。森岡先生一人がまだ元気だった。

 誰か森岡先生を止めてくれ。

 

 

 神様が雲の上で煙草を吸って考え事をしている。

 今や森岡先生は神様より有名だ。失地回復のために何かをしなければならないのか。いやいや、神様とはそういうものじゃないだろう。信じる者がいれば存在し、信じる者がいなければ存在しない。状況的な条件によって存在が決まるもので、何も神様自身がやきもきする必要はない。

 神様は飯を食わないでも生きて行ける。人間は神様に対して多額のお布施をするが、神様には一文も入って来たためしがない。お布施を受ける側も神様がどこにいるのか知らないのだ。

 

 

 スペードのエースは北陸の海岸沿いを放浪の旅をしていた。自殺をしようと思ってここまで出かけたのだが、やっぱり命が惜しい。彼にはトランプ帝国の叙事詩を書くという夢がある。才能がないと諦めていたが、いざ死のうという段になってその夢が胸の中でせり上がって来る。

 叶わなくても夢があるというのはいいことなのだ。この世に自分をつなぎ止めるのは夢だ。いいものを食べる、いい所に旅行する、いい女を愛人にするというのは金がないと出来ないからすぐに諦めてしまうが、高尚な夢はそう簡単には諦められない。だからこそ生きる根拠になる。

 ジョーカーはいつも事務所にいる。実はジョーカーは引きこもりなのだ。組織の一番偉いさんが引きこもりというのは困る反面いいこともある。いつ訪ねても在室なので、指示を仰ぎやすい。

 人生つらいことばかりだ。つらい中でもスペードのエースというのは一番つらい。でも誰でも自分が一番つらいと思っている。

 スペードのエースは人間ではないが、人間とはそのように勝手なものだ。

 

 

 森岡先生は氷の部屋に閉じ込められた。「頭を冷やせ!」と温泉の主人に恫喝されたのだ。

 寒くなってくるとさすがにペニスは萎えてくる。ペニスがタコ焼きみたいに小さくなると森岡先生の目も次第に落ち着いて来る。

 自分は一体何をしていたんだろう?

 いくら思い出しても思い出せない。思い出したら思い出すだろう。いくら考えても思い出せない、と訂正すべきだ。

「どうや、寒いやろう?」と天井から声が響く。温泉の主人の声だ。温泉の主人は実は元総理大臣なのだ。手先の沢山いる黒幕だ。日本の常識を代表する人なのだ。だから森岡先生のように常識を無視する者は敵なのだ。

 常識は見識ではない。確か夏目漱石がそう言っていた。あれ? 自分で勝手に言ってるだけかな?

 

 

ーー色があって空気がある

  空気は色を変える

  どんなきらびやかな色でも

  暗い空気に覆われたら

  淀んだ色になる

  気分という空気がある

  疲れた空気には

  物事は何でも憂鬱に見える

  溌剌とした空気は

  どのようにすれば

  醸し出されるのだろう

  年を追うごとに

  人は憂愁の影を重ね

  悲しみにも

  笑うようになる

 

 

「すみません、会社員田中と申しますが、会頭さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 会社員田中は受付の女性にたずねる。

「どちらさんですか? もう一度お願いします」

「会社員田中と申します」

「アポイントメントは取ってらっしゃいますでしょうか?」

「いえ」

「それでは申し訳ないのですが、お取り次ぎするわけにはまいりません」

「いや、この女性が会頭さんと知り合いなので・・」

「どちらさまですか?」

「礼子と言えば分かりますわ」

 受付の女性は急に慌てふためいて電話の受話器を上げる。

「あの、すみません。礼子さんという方が見えられてますが。はい、はい、分かりました」

 受話器を置いて受付の女性がどうぞと二人を誘導する。

 

 

 倉橋まみは岩場から起き上がってマライア・キャリーの肩を叩く。マライア・キャリーは目を開いたが、まみのことが誰か分からないような顔をした。

「どうもすみません。起こしていただいて。寝過ごすところでした」

「何に寝過ごすの?」

「いえいえ、人間というのは寝過ぎると脳が腐るらしいですから」

「お姉さん、わたしよ、まみよ。どうしてそんなしゃべり方をするの?」

「はあ、そうでございますか。わたしにはとんと何のことか分かりかねます」

「あら、お姉さん、記憶喪失ね。ちょっと早く起こし過ぎたかしら」

「いえ、わたしはこれから会社に出かけないといけません」

「お姉さんは『バグダッド・カフェ』の歌手じゃないの」

「はあ、わたしはそういう名前の会社に勤めているんですか」

「いやだわあ。めんどくさい」