いとしの電話ボックス 第十九回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 部屋の奥さんは、それだけのことを言って黙ってしまった。姿が見えないので、どんな顔をしているのか分からない。

 すると部屋があくまでも明るそうな声でこう言った。

「まあまあ、それだけ言いたいことを並べ立てたらそれでいいだろう。満足したかね。それにしてもわしはひどい男だな。文緒さんたち、さぞかしわしにはがっかりしたことだろう」

「それほどがっかりもしていないです」と文緒が答えた。そしてこう続けた。

「男って、みんな浮気性なんでしょう? そんなこと、雑誌で読んだことがあるわ。部屋さんの奥さん、この人はわたしの夫なんだけれど、この人だって浮気をするんでしょうね?」と敬介を指さした。

 すると部屋の奥さんはすかさず、

「もちろん、浮気をするでしょう。わたしはたくさんの夫婦を見ていますが、浮気をしない夫というものを、ただの一人も見たことがありません」と断言した。これは迷惑だと敬介は考えた。彼は文緒が心から好きなのだ。浮気などするはずがないと思ったからだ。

 だけどこの世界での敬介は何ほどのものでもないから、何も言わずに黙っていた。すると文緒が敬介の方を見て、

「曾根さん、何とか言って欲しいわ。もし浮気をする気がないのなら、ぼくは決して浮気はしないよとか。何も言わなかったら、部屋さんの奥さんに同意したように、わたしは思うわ。曾根さんは浮気をするつもりなの?」と訊ねた。

 敬介はすかさず、

「そんなこと、するはずがないじゃないか。ぼくはきみと結婚できただけで、天にも昇りたいほど嬉しいのに」と言った。

「まあ、天にも昇りたいほど嬉しいの? その言葉を聞いて、わたしとても嬉しいわ。だったら、今から二人で天に昇りましょうか?」と妙なことを訊ねる。

「天に昇るって、それは比喩で言っただけで、本当に昇るわけがないじゃないか」

「あら、昇りたくないの? この世界の人たちは、時々天に昇ることがあるのよ。天にも普通の町があるの。まあ、曾根さん、とてもびっくりした顔をしてらっしゃるわね。まさか天に昇らされるとは思っていなかった? けれども天は全く怖い所じゃないのよ。ねえ、部屋さん?」文緒は部屋の天井辺りを見上げて訊ねた。部屋は一つ咳払いをして、おもむろに、「そうだ。全く怖い所じゃない」と答えた。

「この人は、天にも奥さんを二十人くらい持っているのだから、天が怖いわけがないわ」部屋の奥さんは相変わらず部屋の不義理を責めている。

 部屋は思わず声を立てて笑った。こんなに責められたら、もう笑うより他ないのだろう。

 奥さんは、小さく舌打ちをして、

「まあ、この人、笑ってるわ。こちらにしたら笑いごとじゃないのに」と呟いた。

 その言葉を部屋はすかさず拾って、

「うん、笑って悪かった。でもあんまりカリカリするな。こっちに来て、部屋であるわしと合一したらどうなんだ。たまには合一しようじゃないか。そしてお前も部屋になれ。わしと一緒に、しばしここで仲良くしようじゃないか。どうだ、それで機嫌は直らないか?」と部屋の言い方はとても優しい。姿の見えない奥さんは、ひとこと「そうね」と言って、

「でも、あなたと合一しようとしたら、そこには既に他の奥さんが寝ていたなんてことにはならないのかしら?」とやはり嫌味っぽいことを言う。この奥さんは悪い人なんかじゃなくて、それだけ部屋のことをたくさん愛しているのだと、敬介にもやっと分かった。愛するが故に嫌味を言ってしまう場合もある。そういうことだ。

「今のところは誰もいない」と部屋が答えると、

「今のところは? ということは、あと二十分後には別の奥さんが到着するとか?」とまだ責める。

「それはないな。ここではわしにとってはお前が唯一の奥さんだ。愛してるよ、奥さん」と部屋はまた優しい声を出す。

「愛してるよ、奥さん、なんて言っても、わたしの名前は知らないんでしょう? 名前を知らなかったら、愛してるかどうか、分からないじゃないの」

「そんなことはない。わしはお前を愛しているよ。名前の件はこの際関係がない」

「まあ、いいわ」ついに奥さんは諦めたような声を出して、

「部屋の壁の中に入ればいいの?」と訊ねた。

「そうだよ。どこでもいいから、壁の中に入ると、そこにはわしがいる。部屋全体がわしだから、部屋のどこにもわしがいる。そしてわしとお前はそこで合一する」