禁煙妄想 第十六回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 エレベーターで十二階に上るとそこは人影のないフロアだった。それまで人混みが気になって仕方がなかったので、ぼくはやっとほっと息をついた。

 カメラマンはやはりぼくたちの後をついて撮影している。

 一階よりはるかに狭いフロアで、正面に白いカウンターが横に伸びている。その向こうには誰もいない。カウンターのこちら側の側面の上の方に242と横に番号が打ってある。他に番号を打っている場所はない。してみるとここはフロア全体が242番の窓口なのだ。

 ぼくはカウンターに両手を突いたまま、どうしていいか分からず困っていた。妻も何も言わない。

 するとしばらくしてカウンターの向こうの壁、だと思っていたものが左右に開かれて行った。そしてそこに一つの事務机が現われ、その向こうに田村がたばこをくゆらせながら座っていた。

「おい、どうしてきみがここに……」とぼくは驚いてたずねた。

「俺だってどうして俺がここにいなきゃならないのか分からない。森鴎外に連れて来られたんだ」

「森鴎外?」

「そうさ。そしてここできみの応対をしろと頼まれたんだが、それだけで森鴎外は消えてしまった。ところで後ろにいるのは奥さんだろ? 紹介してくれよ」

「ああ。この人は田村といって、ぼくの小学校時代からの友達だ」とぼくは妻に田村を紹介する。妻は「はじめまして」と丁寧に頭を下げて自分の名前を言う。田村はたばこを持った手を上に上げて振っただけだ。そしてこんなことを言う。

「友達だけれど、結婚式には招待してくれなかった」

「結婚式なんかしなかった。ぼくたちの仲にはそんなものは必要ない」

「はがきくらい送ってくれたらいいのに」

「ぼくときみとはこの二十年ほど全然会ってなかったじゃないか。だから送らなかったんだ」

「そういえば最近よく会うな。どうしてだろう?」

 どうしてだろう? とぼくは考える。そして彼の吐き出すたばこの煙を見て一つの考えに至る。そうだ、ぼくが禁煙を始めたちょうどその頃からよく会うようになった。

 すると田村は何も言わずにニヤリと笑った。非常に気味が悪かった。何もかも彼にはお見通しのようで。

 いやいやこのまま彼のペースにはまってはならない。ぼくにはぼくの目的があるのだ。田村などに構ってはおられない。

「おい、ここに『扉』というものがあるときいたのだが、どこにあるんだ?」

「誰からきいたんだ?」

「夏目漱石」

「ハッハッハッハッ、俺は森鴎外できみは夏目漱石かい。妙なことになったものだな。一体ここはどこなんだね? 実は困ってるんだ。俺にはちゃんと教材販売というれっきとした本職があるんだ。こんな所に連れて来られたら、仕事に行けないじゃないか」

「じゃあ、『扉』については知らないんだね?」

「『扉』なら知ってるよ。横の戸を開けると長い廊下が続いていてね、その突き当たりが『扉』だ」

「その向こうには何がある?」

「何があるって、大星ぶんぶんの楽屋だよ」

「えっ?」

 

 田村は新しいたばこに火をつけてくつろいでいる。それにしてもよくたばこを吸う奴だ。ぼくが禁煙をしていることを知っているのだからもう少し控えてくれてもいいのに。

 ぼくはたばこに対する不満とともに大星ぶんぶんのことを考えた。大星ぶんぶんと西武百貨店の本屋で出会ってからぼくの人生は大きく変わった。全く無名の無職男だったのに、あっというまに超有名人になってしまった。

 この隣でカメラを撮っているカメラマンがぼくを全国に放送してくれる。

 大星ぶんぶんが『扉』の向こうにいるというのは何か示唆的な意味があるのだ。大星ぶんぶんは最初から『扉』の向こうにいた。そしてぼくに何かを教えるために待っていた。

 このように都合よく考えを展開させたぼくは、田村に「『扉』の向こうに連れて行ってくれ」と言った。

「連れて行ってもいいが、大星ぶんぶんの楽屋だぜ。楽屋という所はタレントがくつろぐ所だ。そういう所にみだりに入って行ってはいけないだろう」

「ぼくも大星ぶんぶんと同業者だ。訪ねる権利はある」

「権利って、向こうは大御所だぜ」

「ぼくだってタレントだ」

「きみは自分がどうして有名人になったか知っているか?」

 痛いところを突かれた。ぼくは黙って田村の顔を睨む。

「知らないだろう? 大方の奴はそれを知らないで有名になる。だが才能の何たるかを知らない奴はあっというまに転落する」

「そうだ、それを知りたいんだ。夏目漱石が教えてくれると言ったんだ、才能の秘密を。『扉』の向こうに行ったらそれが分かると言ってくれたんだ」

「ほお~、そうかね。俺もさっき『扉』の向こうに行って大星ぶんぶんに会いに行ったけど、そんなもの分からなかったよ」と田村は冷たい。

「でも」と田村は少しニヤニヤして先を続ける。「才能の秘密なんてものがあるのなら、俺だって知りたい。ちょっと待ってくれ、内線で大星ぶんぶんに電話をする」