I am a book 第三十九回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 百合さんは席を立って会場を出ようとしたが、途中でまた国見らしい男の声が聞こえて彼女を呼び止めた。

「おいおい、目が合ったのに無視して帰るなよ。一緒に飲みに行こうって約束したじゃないか」

「わたし、そんなこと約束してないわ」

「きみが約束してなくても、おれが誘ったのだから、それはれっきとした約束だ。さあ、行こう、行こう」

「相変わらず横暴なのね。まあ、ちょっとおなかもすいているから、行きましょう。当然、奢りよね?」

「当たり前じゃないか。女に金を払わすようなケチな男じゃないよ、おれは」

「あら、昔のあなたはケチだったわよ。わたしのヒモみたいだったじゃないの」

「昔は昔、今は今。今は結構羽振りがいいんだ、おれは」

「矢田部君のおかげじゃないの?」

「失礼なこと言うなよ。矢田部なんかまだ下っ端だよ。今日の公演はいわば二軍戦だな。おれが演じる一軍戦は、もっと大盛況だぜ」

「今日でも、劇団トニオみたいな小劇団にしたら、大盛況だと、わたしは思うわ」

「まあ、どうとでも思ってくれよ。とにかく酒だ、酒だ、酒だ、酒だ」

 確かに芝居が終わった後のあの拍手の大きさは、並大抵ではなかった。矢田部巌というのは、結構大物になるのではないか。いや、既にもう、大物になっているのではないか。もちろんこれは俺の推測だが、百合さんもそう思っているようだし、国見だって本当はそう思っているようだった。

 国見がタクシーを捕まえて百合さんを乗せた。国見は後部座席に二人で並んで腰かけて、運転手に行き先を言った。タクシーは走り出した。

 国見はしきりにしゃべっているが、百合さんは返事すらしない。しまいにはカバンを開けて俺を外に出してくれた。そして相変わらずページの貼りついた俺を、開こうとしたり、表紙を撫でたりしている。

「それは何だ?」

「本よ」

「本は、見たら分かるよ。何の本だ?」と言って、国見は俺を無理やり取り上げた。

 俺はこのうるさい男に対して、心底の憎しみを感じた。お前なんかあらゆる力を失えばいいんだと、知らず知らずの間に念じていた。

 すると国見が、「冷たいな、この本……」と言った途端、俺を膝の上に取り落とした。百合さんは下に落ちそうになる俺を、危うくキャッチして、手元に引き寄せた。

 彼女は国見の方を見て睨んだが、彼の様子が変になっていることに気付いた。大きく目を見開いて、体をブルブル震わせている。そしてしきりに「寒い……寒い……」と呟いている。

「寒いの? どうして寒いの? ちょうどいい具合じゃないの」

「お客さん、寒いんなら、エアコン消しましょうか?」と運転手もハンドルを握りながら声をかけた。そしてパチリとエアコンのスイッチを切った。車内で微かにうなっていた機械音が消えた。

 それで国見の体の震えは止まった。しかし俯いたまま何も言わない。黙っているのはうるさくなくて結構なのだが、その様子があまりに暗いので、それはそれで百合さんにしてみれば迷惑だ。

 顔の色は青白くなり、体の大きさも一回り小さくなったように見える。

 俺は百合さんの温かい手に包まれながら、ほくそ笑んでいた。俺の念が通じた。俺自身、自分にそんな力があるなんて知らなかったが、少なくともこの国見という男に対しては、念が通じた。

 それは、国見という男から発せられる熱で分かる。さっきまであんなに熱に溢れていたのに、俺を触って「冷たいな」と言った後には、熱という熱が全く感じられない。

 この男はまるでもう──死体そのものだ。

「国見さん、具合が悪いのなら、劇団のメンバーの所に戻りましょう。というより、戻ってもらいたい。運転手さん、さっきわたしたちがこの車に乗った所にあったビル、覚えてる?」

「覚えてますよ」

「そこに戻って。わたし、嫌よ、こんな人の面倒見るの」と百合さんは険しい顔をして、国見を睨んでいた。