【1・その歴史人物って、世界史のどんな時代の人?】
1666年に万有引力の法則を発見し、1687年にプリンピアにて発表することによって、学問界に衝撃を与えたアイザック・ニュートン。

多くの人が知っていて、ある程度の人が業績もしっていると思いますが、世界史でいうと、どの辺りのどの時代なのかなかなかイメージできる人は少ないのではないかと思います。

時代をイメージできるポイントとして、私はその人の生涯と社会的出来事の関連性を調べることによって、記憶に残るようにしています。

今回は、名誉革命にも通じる清教徒革命(ピューリタン革命)と、ニュートンと関わりの深いフックの生涯を重ね合わせることで世界史と人物を結びつけていこうと思います。

【2・ニュートンの宿敵・ロバートフックの誕生】
今では有名なニュートンですが、学問の世界に登場してから常に行く手を阻んできた人がいました。
1671年にロンドン王立協会にてニュートンの反望遠鏡が紹介されたときにもひと悶着を起こし。また、その後の手紙でも、更に万有引力発表時にもいちゃもんをつけています。

その人が、宿敵ともいうべき、ロバート・フック。

フック自身は、1703年になくなったときに、ニュートンに多くの文献や肖像画を捨ていられているためもあってか、あまり目立ちません。

しかし、教科書にでてくるバネの法則ある「フックの法則」のフックは彼になります。また、世界ではじめて顕微鏡でみる 肉眼ではみれない世界を本にすることによって広めたのもフックになります。またニュートンほど数字には強くなかったのですが、万有引力と似たような考え方もっていたり、当時はかなりの科学界におけるリーダーでもありました。

 そんなフックが1635年、イングランドの南にある小さな島・ワイト島に生まれました。
 このワイト島に1647年、国王の地位を終われることになるチャールズ1世が籠城しているのです。

 つまり、フックの幼少期には、清教徒革命が達成されるための内戦の主戦上のひとつが起こっていたのです。

 


 
【3・清教徒革命】
 清教徒革命とは、 当時のブルジョア階級にあたる人々が、国王の絶対王政に反発をもって、革命を起こした事件です。

 1500年代後半には、イギリスはまだヨーロッパにおいては有名でもない国でしたが、1588年エリザベス1世がスペインの無敵艦隊を倒すことで、名をあげました。
 そしてエリザベス1世が1603年になくなると、当時のスコットランド王だったジェームズ1世がイングランドの王も兼任します。そこで、じぇーむz uじぇーむz  ジェームズ1世が王権神授説を根拠にすk tとすkっtすこっとスコットランドとイングランドの統一のために絶対王政を敷きます。
 これが、国民の反発を呼び、ジェームズ1世の後、引き継いで絶対王政を行ったチャールズ1世のときに、精教徒の代表であるクロムウェルを中心に反乱がおき、内戦が起こります。
 反発自体は1625年に議会において「権利の誓願」が出されたときに起こりますが、内戦までにいったのは1642年からでした。そして、この戦いにはクロムウェルが主導する清教徒が優勢に進み、1647年にはチャールズ1世はワイト島に籠城したて直そうとしたのです。
 しかし反撃もむなしく、国王は負け、チャールズ1世は処刑されることになり、1649年革命がなるのです。

【4・ワイト島で育つフック】
 精教徒革命のときチャールズ1世が一時的に退避した1647年のときは12歳でした。
 そのときの資料はないのですが、おそらく小さな島で起こったことですので、多感な時期のフックに影響を与えたに違いありません。

 また清教徒革命の始まりともいえる1642年はニュートンの生まれた年でもあります。
 
 そして、清教徒といいますと1620年にアメリカ大陸につき、現在の自由と平等の精神を与えるのに寄与し、アメリカの建国の父とも言われています。おそらくジェームズ1世の絶対王政から逃れて、アメリカ大陸に向かったのでしょう。