日本では教育面でパソコンを使うことは比較的少ない。小、中、高と、課題をプリントアウトして提出なんてことはほとんどなかったと思う。このことはとても残念だ。


やはりパソコンを使うことは非常に学習面において便利だ。特にここではパソコンを講義中に使用することの益を述べたい。無線LANが使えるとなお良い。主な利点を二つ挙げる。




利点その一



ノートをとるのが極めて早く、編集が簡単



数学など、特殊な記号を必要とする科目は筆記のほうが早いことは、初めに断っておく。


その他の日本語で記述する科目、英語では、打ち込むほうが断然手書きより早い。このことにより、ノートをとっていて話を聞いていなかったということはある程度避けられる。また、授業でわざわざノートを取る時間を用意することがあるが、その時間を次の単元の学習に充てることが出来る。


さらに、ノートのレイアウトなどを編集するときにはすさまじい威力を発揮する。たとえば、先生が板書をするのを待っているときに、次の説明には大体このくらいの空白がいるだろうと思っていたのが足りなかったり、多すぎたりしてノートが見づらくなる。このようなことは、コピーアンドペーストでささっと解決である。また、工夫ひとつでオリジナルの暗記帳をすぐさま作れる。とくにこれが効果的なのが、世界史などの暗記科目である。


使用例を挙げる。



[スキタイ]…紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。(ウィキぺディアより引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4



このように重要語句をオレンジにしておけば、赤シートで隠すことが出来る。オレンジペンを用いてももちろん可能である。だが、オレンジペンは修正が効かないし、パソコンのほうが断然早い。必要なところだけ小さくしてプリントあるとすれば、暗記帳よりもコンパクトで時と場所を選ばない。これを授業中にやってしまえば、あとは覚えるだけである。暗記帳をわざわざ作る時間を後で用意することもない。





利点その二


わからないことをすぐに、詳しく調べられる



無線LANが授業中、講義中に使えると、もはや何冊もある参考書、用語辞典を用意する必要もない。ネットで調べればいいのである。先生に聞けばいいと思うかもしれないが、質問は授業を中断してしまう。また、聞きづらい質問だってある。こうした疑問をすぐに解決できるのである。たとえば、憲法の講義で、講師が、急に教科書には載っていない憲法の条文を読み上げ始めたときに、すぐに、憲法全文などと入力して検索すればよいのだ。憲法が載っている本は分厚いので持ち歩く気にはなれないので、ネット検索は非常に重宝する。また、紙では該当箇所にたどり着くまでに時間がかかるが、パソコンではコントロール+Fキーで該当箇所にすぐに飛べる。



パソコンがあると、生徒たちが授業中遊んでしまうと懸念される方もいるかもしれない。しかしよくよく振り返ってみると、そういう生徒は、パソコンがあろうとなかろうと遊んでいるのだ。たしかに小、中までは教師が生徒に授業を受けさせる責任があるかもしれない。しかし、パソコンで受けられる恩恵を、そうした意志の弱い生徒のために制限してしまってよいのだろうか。能力のある生徒の学習は、最大限サポートすべきである。また、高、大の教育に関しては、義務教育から外れるため、勉強する、しない、は生徒の自己責任だと考えてよいだろう。遊んでいる生徒は遊ばせておけばよい。



おもに以上の二点から、パソコンは学習面で非常に便利である。なので、授業中、講義中にパソコンが使えるよう配慮すべきだ。また、無線LANの整備も進めるべきである。

自粛。


自粛。


自粛。


一体この行為、この言葉にどんな利益があるというのだろう。



石原新太郎東京都知事の言葉だ。


「花見じゃないんだよ。今ごろね。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出てくる。」



同胞の痛みを分かち合う...本当にこのことが被災者のためになるだろうか。疑問である。


被災者が被災したことで、被災していない人までも苦しめる。そう感じて、さらに彼らが苦しむことはないだろうか。


井の頭公園などでは、今年は簡易トイレやごみ置き場を設けていない。



私の言いたいことはひとつ。


楽しいことは楽しむべきである



理由は二つある。



ひとつには、自粛を続けていたら、いつまでたってももとの生活に戻れない、ということである。


はっきり言おう。被災者の傷は永遠に癒えない。


私はそう確信している。


これを前提とすると、永遠に自粛を続けなければならないことになる。


それはおかしい。


阪神淡路大震災の記憶は、それを経験していない私も共有している。だからといって私は悲しんではいない。なぜなら、それを経験した人たちも力強く生きているからである。


毎年一分間の黙祷の機会がある。そのたびに、思いをはせるのは別にかまわない。しかし、それ以外の時間には、皆、未来を向いている。


もう自粛はやめよう。そして、楽しいことをして、生活のエネルギーを蓄えて、未来に向こう。



二つ目には、功利主義の考え方がある


ベンサムやミルが有名だ。基本的な考え方としては、人類全体の幸福が増大することをすべきである、ということだ。


痛みを共有することを考えよう。被災者はもともと痛みを持っている。非被災者は痛みは持っていなかった。共有した。痛みを持っていなかった人が痛みを持った。人類全体として、痛みが増えた。


これでは世界は暗くなる、ばかりである。



楽しいことについて考えよう。被災者は痛みを持っている。非被災者は楽しいことをする。人類全体として楽しさが増えた。


このことに違和感を持つ人はきっとたくさんいるだろう。被災者をさておき、何を楽しんでいるのだと。


自粛要請―この言葉は極めて不自然な表現である―の理由もここにある。



それなら、被災者と一緒になって楽しいことをすればよいのだ。


被災者は痛みを持っている。非被災者と被災者は楽しいことをする。人類全体として、被災者の分まで楽しさが増大する。


これで世界は明るくなる。



もう一度言おう。自粛は日本を暗くする。


楽しいことをして日本を明るくしよう


そして、未来のことを考えよう。


情報があふれ、取捨選択が求められる時代。有益な情報とそうでないもの。選り分ける力、リテラシーの格差が、一種の社会的格差として反映されてしまう。一方、企業側は、自分たちのブランドを広告するのが難しくなってきたとも言える。


そんな、現代の時代のニーズにぴったり合った広告媒体が存在する。


それが、コンタクトレンズである。


コンタクトレンズの表面に広告を印刷すれば、目を開けている状態ならいつでも、広告効果を発揮する。


以下に理由を説明する。



テレビ広告の衰退


現在、各々の企業の広告費の多くを占めているのが、テレビを媒体とした広告費である。しかしながら、録画再生機能の向上により、CMのみをスキップすることが出来るようになってしまった。これでは多額の広告費を割いたとしても、効果のほどは知れている。そこで、新しい広告媒体が必要となってくる。



コンタクトレンズの市場拡大


パソコンなどの使用時間の増加に伴い、視力が低下している。それゆえ、メガネやコンタクトレンズの需要が高まっている。年々コンタクトレンズの使用者は増えており、最近は特に、黒目を大きく見せるものなどが登場した。そのため、ファッションの要素が加わり、若者の利用がさらに増えることが予想される。



コンタクトレンズの使用法


コンタクトレンズは大変便利である。しかし、眼球にじかに触れるものであるため、取り扱いが不適切だと、思わぬ事故や病気の元となってしまう。そのため、利用者に適切な使用を促すことが必要である。



コンタクトレンズ広告は、これら三点を同時に満たすことが出来る。


一点目と二点目に関しては説明不要であろう。


三点目は、ほんの少し工夫すれば達成できる。使用期限が近づくと、広告が浮かび上がるように設計すればよい。こうすることによって、期限間際には視界が狭まり、取り替えざるを得なくなる。また、そもそもずっと広告が見える状態では、視界が制限され、日常生活に支障をきたす可能性があるため、決して受け入れられないであろう。


いずれは、コンタクトレンズの広告収入から、コンタクトレンズ自体は無料になることも予想できる。


企業側にとっては、良質の広告媒体となる。なぜなら、CMのようにスキップされないのだから。


消費者側にとっては、安価、または無料でコンタクトレンズが利用できる。



どちらにとっても大きなメリットがある。近い将来実現することは間違いなかろう。