(自身への途上、あるいは)ゼロへの過程 | En Route

En Route

Ypno's blog. イプノのブログです。
日々、思ったことなどを書いてゆきます。

以前、ツイッター上でわたしのフォローしていた人が、

「ツイッター上のキャラクターと、オフ会とかで現実に会ったときのキャラクターにギャップがある人は、ツイッター上のキャラクターのほうが当人の本当の性格なのだ。」

というような発言をなされていて、それが結構熱い話題になっていた。

 

昔から、人はネット上のキャラクターで現実とは違う自分を演出しているのだ、と言われていたものだから、その説はなかなかに新しかった。

 

確かに言われてみればわたしもツイッター上で直に人には言えないようなことを「吐き出している」ところがあるから、捉え方によってはそれが本音だともいえるし、もしそれが本音ならば、本当の当人の性格なのだと解釈することも可能であろう。

 

しかし、そうやって考えていくうちに、

「本当の自分とは何か」

という壮大な(≒哲学的な)テーマになってきそうな気もする。

 

 

さて、わたしは昨日アルバイトを辞めた。

 

わたしは仕事をしていると、職場の雰囲気とか、環境とかに染まって、自分が違う人間になってきそうな気がして、それが嫌だった。

 

むしろ仕事をしていない時の自分が、本当の自分、本来の自分であると思う。

 

でもそれは、わたしだからそう思うのであって、人によっては、仕事をしていてこその自分だ、自分から仕事をとったら自分はダメ人間になってしまう、と不穏に思う人もいるんだろう。

 

(そういう人たちは、この社会に適応して生きている人々だ。)

 

ところで、わたしは上で、「仕事をしてない時の自分が本当の自分だ」と書いたけれども、それはそれで問題であることも承知している。

なぜならば、仕事をしなければ生活していくのに必要なお金を得ることができないのであるから、自分が変わるのが嫌だとか四の五の言ってるわけにはいかないからである。。

 

一方で、仕事をしていないと本来の自分を失ってしまうという人も、それはそれで問題だろう。

だってそれはワーカホリック(注※)だから、定年とかになったら見るも無残な状況になるかもしれない。

 

おそらく、我々は「途上」にあるんだろう。

 

それは、「本来の自分への途上」であって、本当の自分は未だ眼前に立ち現われてはいないのである。

 

 

最近ではあまり使われないが、一昔前、20年ほどまえは時代背景ゆえ、「自分探し」という言葉が在った。

 

しかしこうやって過ごしていると、自分とは探すものではなく、折り合いをつけつつ構築していくものかなぁと思う。

 

「折り合いをつけつつ」というのは、自身の置かれている環境や、自身の資質を無視してそれをすることは出来ないからである。

 

そうやって構築していった先に、平和や、平穏があり、特段何事もなく(≒つつがなく)普通に過ごせる日々があったらいいなぁと思う。

わたしはそれを、希望(注※※)と呼びたい。


 

 

注※ 現代では社畜という便利な言葉もある。

 

注※※ パンドラの箱から最後に出てきたのが希望と云われる。それがわたしにはゼロの象徴(=何事もないこと)のように思われるのである。