南光坊天海説
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
日光東照宮 陽明門 随身像
異説の根拠として、
日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[17]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[18]
「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの[19]
可児から日光を向くと真後ろは岸和田(貝塚)になる
明智光秀の出身地(岐阜県可児市[20])から日光東照宮[21]の方向を向くと、「後ろの正面[22]」はちょうど大阪府岸和田市(貝塚市[23])になる。岸和田には日本で唯一、明智光秀の肖像画がある本徳寺[24]がある。つまり、日光東照宮創建にかかわりが深い南光坊天海の正体が、実は明智光秀であることを暗に示している。
本徳寺にある光秀の位牌には「当寺開基慶長四巳亥」と書いてある。つまり、光秀が慶長4年(1599年)に寺を開いた[25]と記されている(ちなみに本能寺の変は天正10年(1582年)、秀吉の死は慶長3年(1598年))。光秀の肖像画には「放下般舟三昧去(光秀は「仏門に入り、去って行った」つまり「僧になり、その後寺を出た」)」と書かれている。この肖像画は光秀の息子の南国梵桂が絵師に書かせたものと伝えられている。
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
日光東照宮 陽明門 随身像
異説の根拠として、
日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[17]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[18]
「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの[19]
可児から日光を向くと真後ろは岸和田(貝塚)になる
明智光秀の出身地(岐阜県可児市[20])から日光東照宮[21]の方向を向くと、「後ろの正面[22]」はちょうど大阪府岸和田市(貝塚市[23])になる。岸和田には日本で唯一、明智光秀の肖像画がある本徳寺[24]がある。つまり、日光東照宮創建にかかわりが深い南光坊天海の正体が、実は明智光秀であることを暗に示している。
本徳寺にある光秀の位牌には「当寺開基慶長四巳亥」と書いてある。つまり、光秀が慶長4年(1599年)に寺を開いた[25]と記されている(ちなみに本能寺の変は天正10年(1582年)、秀吉の死は慶長3年(1598年))。光秀の肖像画には「放下般舟三昧去(光秀は「仏門に入り、去って行った」つまり「僧になり、その後寺を出た」)」と書かれている。この肖像画は光秀の息子の南国梵桂が絵師に書かせたものと伝えられている。