福来心理学研究所に集う科学者たち
黒田正典
1. 研究所前史、概観
福来博士の略歴を寸描し、次いで学問的世界における先生の業績の意義にふれた後、仙台の福来心理学研究所に集った科学者たちの紹介に進むことにしたい。なお先生と能力者との関係とか念写の諸実験の経過については、他の専門書、中沢信午『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房、一九八六)、山本健造『念写発見の真相』(福来出版)、福来友吉『心霊と神秘世界』(復刻版、一九八二)、『福来心理学研究所研究報告』第三巻、星猛夫論文と中沢信午論文に譲り、ここでは先生の科学者としての゜熱と厳正な実験的精神を慕う科学者たちの群像を述べることにしたい。
先生は一八六九年(明治二年)、岐阜県高山町に生まれた。一八九六年、第二高等学校を卒業(七月〉、東京帝国大学入学(九月)、一八九九年に東京帝国大学卒業、ただちに同大学院に入学した。一九〇六年、『催眠心理学』を著作、文学博士の学位を受けた。同年、東京帝国大学講師、一九〇八年同助教授。一九一〇年念写発見。一九一五年、東京帝国大学退職。一九一九年、高野山で修行。一九二六年、高野山大学教授。一九二八年(昭和三年)、国際スピリチュアリスト会議(ロンドン)に出席し研究発表。一九二九年、『日本の能力者による念写実験』(オランダ語、アムステルダムで出版)。一九三一年、『透視と念写へ英文、ロンドンで出版)。一九三二年、『心霊と神秘世界』。一九四〇年、高野山大学を退職。一九四五年(昭和二〇年)、大阪府箕面(みのお)から仙台へ移住。一九四六年、東北心霊科学研究会発足。一九五二年、『日本の偉大な能力者三田光一』(英文、サイキック・オブザーNo.325)。三月十三日、逝去。一九五六年、高山市に福来博士記念館が開設される。一九五八年、多津夫人逝去。一九六〇年六月九日、仙台市に福来心理学研究所落成、設計奉仕、前記研究会会員の佐藤栄氏(東北工業大学)。なお財団法人としては一九二八年一月十四日に大日本心霊研究所として発足、その後二回の改称を経て一九八一年六月二十四日に三回目の改称で、財団法人福来心理学研究所となった。また一九八三年に飛騨福来心理学研究所が財団法人として認可された。
2. 東北心霊科学研究会
福来心理学研究所の母体となった集団が東北心霊科学研究会であった。初代研究所長の白川勇記(東北大学名誉教授、理学博士、物理学専攻)は、日制第二高等学校生徒の時代、同じく二高生徒であった土井晩翠の長男、英一氏と親友であった。彼は英才のほまれ高く、とくに語学は天才的、また「小泉八雲先生記念碑建立」へ上野図書館前庭)その他、社会的提言で実現されたもの幾つかあった。しかし二十五歳でなくなった。晩翠の悲嘆は甚だしかった。一九三四年十二月二十八日、二高ボート部選手十名が松島湾で遭難した。死体の捜索は困難を極めたが、三日目に一霊媒の予言したとおり発見された。このことに傷心の詩人は心を動かされて心雪血の実在を信じ、盛岡の能力者小林夫人を招き、その力をかりて令息と対談を重ねた。この席に白川博士も招かれていたが、参加した青年の間に研究会の企てが生まれた。戦後の一九四六年(昭和二十一年)、東北心霊科学研究会が結成され、会長に白川博士、顧問に福来博士、土井晩翠翁、赤痢菌発見者の志賀潔博士が推された。この研究会は心霊現象の話あるたびに現地調査を行い、また霊媒を訪問、実験を重ねた。得心のゆく結果は得られなかったが、他方では講演会を開き啓蒙の事業を進めた。この研究会は福来心理学研究所に吸収されていった。
3. エピソード二つ
上述の研究会の時代のこと二つを紹介しておこう。まだ専用の集会室がなかったので、例会は会員の自宅を持回りとしていた。いろいろ回ったはずだが、いま覚えているのは関眼科と黒田の拙宅である。拙宅のときとった写真一葉がある。一九四七年前後か。
志賀博士、福来博士、晩翠翁、筆者の叔父・高橋謙肋医師、志賀博士のご次男、亮、黒田正大学生(筆者三弟、後に精神科医師、医学博士、宮城刑務所医務部長)、星猛夫大学院学生へ後に新潟大学名誉教授、理学博士、動物学専攻)、千葉正士大学院学生(後に東京都立大学名誉教授、法学博士、法人類学専攻)、黒田正典東北大学助手(後に東北大学名誉教授、文学博士、心理学専攻)の顔が見える。
もう一つの話は東北心霊科学研究会主催の実験で、白川会長は竹内満朋霊煤を招き、博士勤務の金属材料研究所内で二日にわたる実験を行った。会場の暗幕を引き暗室化され、霊媒の周囲は精神統一のためということで、黒幕のキャビネットで掩われた。人形、メガホン、懐中電燈、紙と墨汁を含んだ筆等が夜地盤料を縁られていたが・盛蝶の精神統一が深まるとともに、これらが空中を飛び、あるいは紙に文字が書かれ、メガホンから声が出たりした。
第二日も実験が同様に進められたが、研究室助手が「黒いものが出てきた、また出てきた!」と叫んだとき、現象はすべて止まった。キャビネットを開いしたが、回復せず実験は中断された。その後、博士は東京に竹内氏を訪ね、再度の実験を依頼したが実現するにいたらなかった。なお、実験は一九四九年に行われた。
この心霊実験には筆者も大学生として観衆の一人であった。それに対する評価としては種々のことが考えられる。この実験のスタイルは欧米社会の中で行われていた心霊実験のオーソドックスな方式に従ったものである。これを、福来先生受難の故事あるにもかかわらず大学の研究室の中で実験したことは、わが国では最初のことであり、白川博士の知的な勇気と誠実は評価されねばならない。一方、心霊実験そのものの方法論には問題性が避けられない。能力者、あるいは一般には被験者が所期の成績すなわち現象発生をもたらすには、リラックスした心理状態が絶対に必要である。通例の知能検査、性格検査でさえ検査者が険悪な監視の態度をとると、検査得点は平常の能力よりも下がる。これを実験者効果という。さりとて本人を気楽にするため実験条件をルーズにすれば、実験結果には客観性がなくなる。他方、監視を過度にして現象が発生しないからといって、現象の非存在は証明されたことにはならない。能力者・被験者のりラックスした心理的条件と厳格な実験条件がい限り、現象の否定も肯定も果たされたことにはならないである。
4.福来博士の業績の再認識、名誉回復
一九六七年七月に日本催眼医学心理学会が仙台で開かれることになり、日本における催眠心理学の先駆者として福来先生の再評価の絶好の機会とすることが企図された。そこで福来心理学研究所の総意をうける形で、「福来友吉博士の業績の紹介ー催眠心理学的側面とその後の展開 」、黒田正典(東北大学教養部)・中沢信午(山形大学理学部)・三品正直(三品内科)・杉山清人(杉山歯科)の連名発表として十月十四日に黒田が講演した。まず先生の略歴と著作を紹介した後、研究内容の解説に移った。業績は、初期における催眠心理学的側面の展開と、その後の超心理学的側面の発展に大別される。前者については、「催眠とは一切の自発的活動の全く休息」した状態である。他方、暗示とは「連合的に活動すべき精神的あるいは精神物理的傾向を゜発」する刺激と考える。博士の催眼理論は英国の連合心理学と東洋の仏教心理学の巧みな融合であった。超心理学的研究では、観念は「要求」「力」「空性」の性質をもつことを念写の実験で立証しようとした。例えば能力者が武田信玄を念写した後、全く意図しない上杉謙信が現れた。これは観念自身が連合の要求をもつことを証明する。また観念は乾板に感光させる力をもつ。または観念は物の障壁と関係なく空と同様に通過する。以上の発表は多大の反響と歓迎をうけ、学界における博士の確固とした地位への言及が相次いだ。
5.福来心理学研究を支える人々
故白川勇記博士は「前史」時代に引き続き、研究所の初代所長としてその発展に貢献した。第二代の中沢信午所長は山形大学名誉教授で理学博士、植物学専攻で財団法人日本メンデル協会理事である。第三代所長は筆者である。星猛夫理事は、晩翠翁を囲む心霊研究のグループに志賀博士の参加を仲介し東北心霊科学研究会の結成に貢献した。浅間一男理事は理学博士、古生物学専攻であるが、仙台の福来心理学研究所の開設後、初代の管理人も勤めた。国立科学博物館地学部長の職にあったが、日本心霊科学協会の理事長もつとめた。杉山清人顧問は、自己自身は多くの神秘的体験をもちながら、医学の立場から科学的超心理学を推進する。故黒田正大前監事も医学系の研究者で「前史」時代から陰の力として奉仕した。故岡田幸雄理事は理学博士で東北大学、山形大学、ブルックリン大学(ニューヨーク〉、電気通信大学、東海大学を歴任した。戦時中であるが海軍航空機の墜落多いのはアンテナの欠陥のためと看破、世界で最高感度のアンテナを創造した。東北大学時代に電気通信に関する数学的基礎理論を作ったが、これは文化の領域にも適用できる情報科学の最初の研究で、ベル研究所による開発に先立つこと八年であった。岡田博士は自己の理論で「千里眼」の解明も期待したのであった。また電気通信大学で「超心理学」の最初の講義を行った。そのほか若手研究者として中鉢武理事は画像処理の専門家、佐佐木康二理事は「プラナ」「タキオン」等を扱う新領域、「磁流物理学」の研究者である。最近では生体の多元情報計測をされている東北大学の田中治雄工学博士(評議員)、世界各地の不思議現象を調査、自ら体験し、新次元の研究をされている森田健不思議研究所所長(評議員)などがいる。なお以上の諸氏は科学者であるが、隣接の世界の人として歴史的文筆家といいうる一群がある。加藤ちとせ理事は郷土史エッセイスト、鈴木双竜前評議員は郷土の武将・学者に関する著作者、中山栄子前理事は郷土女性史の専門家である。また、能力者タイプとして渡部隆男理事は真理探究の立場からの手かざし治療家、若山敏弘理事は「超念力」の治療家である。そのほか研究所を支える人として、福来博士に縁りのある福来昇三理事(会社経営)、それぞれに見識あるいは異能をもつ多くの理事、評議員が控えるが、紙幅なく割愛する。協賛グループのコーナーでも紹介されているのでご覧いただきたい。なお以上は人材の紹介であるが、そのほか公的刊行物として『福来心理学研究所研究報告』、研究所付属の啓蒙団体「福心会」の機関誌として『福心会報』(休刊中)がある。
黒田正典
1. 研究所前史、概観
福来博士の略歴を寸描し、次いで学問的世界における先生の業績の意義にふれた後、仙台の福来心理学研究所に集った科学者たちの紹介に進むことにしたい。なお先生と能力者との関係とか念写の諸実験の経過については、他の専門書、中沢信午『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房、一九八六)、山本健造『念写発見の真相』(福来出版)、福来友吉『心霊と神秘世界』(復刻版、一九八二)、『福来心理学研究所研究報告』第三巻、星猛夫論文と中沢信午論文に譲り、ここでは先生の科学者としての゜熱と厳正な実験的精神を慕う科学者たちの群像を述べることにしたい。
先生は一八六九年(明治二年)、岐阜県高山町に生まれた。一八九六年、第二高等学校を卒業(七月〉、東京帝国大学入学(九月)、一八九九年に東京帝国大学卒業、ただちに同大学院に入学した。一九〇六年、『催眠心理学』を著作、文学博士の学位を受けた。同年、東京帝国大学講師、一九〇八年同助教授。一九一〇年念写発見。一九一五年、東京帝国大学退職。一九一九年、高野山で修行。一九二六年、高野山大学教授。一九二八年(昭和三年)、国際スピリチュアリスト会議(ロンドン)に出席し研究発表。一九二九年、『日本の能力者による念写実験』(オランダ語、アムステルダムで出版)。一九三一年、『透視と念写へ英文、ロンドンで出版)。一九三二年、『心霊と神秘世界』。一九四〇年、高野山大学を退職。一九四五年(昭和二〇年)、大阪府箕面(みのお)から仙台へ移住。一九四六年、東北心霊科学研究会発足。一九五二年、『日本の偉大な能力者三田光一』(英文、サイキック・オブザーNo.325)。三月十三日、逝去。一九五六年、高山市に福来博士記念館が開設される。一九五八年、多津夫人逝去。一九六〇年六月九日、仙台市に福来心理学研究所落成、設計奉仕、前記研究会会員の佐藤栄氏(東北工業大学)。なお財団法人としては一九二八年一月十四日に大日本心霊研究所として発足、その後二回の改称を経て一九八一年六月二十四日に三回目の改称で、財団法人福来心理学研究所となった。また一九八三年に飛騨福来心理学研究所が財団法人として認可された。
2. 東北心霊科学研究会
福来心理学研究所の母体となった集団が東北心霊科学研究会であった。初代研究所長の白川勇記(東北大学名誉教授、理学博士、物理学専攻)は、日制第二高等学校生徒の時代、同じく二高生徒であった土井晩翠の長男、英一氏と親友であった。彼は英才のほまれ高く、とくに語学は天才的、また「小泉八雲先生記念碑建立」へ上野図書館前庭)その他、社会的提言で実現されたもの幾つかあった。しかし二十五歳でなくなった。晩翠の悲嘆は甚だしかった。一九三四年十二月二十八日、二高ボート部選手十名が松島湾で遭難した。死体の捜索は困難を極めたが、三日目に一霊媒の予言したとおり発見された。このことに傷心の詩人は心を動かされて心雪血の実在を信じ、盛岡の能力者小林夫人を招き、その力をかりて令息と対談を重ねた。この席に白川博士も招かれていたが、参加した青年の間に研究会の企てが生まれた。戦後の一九四六年(昭和二十一年)、東北心霊科学研究会が結成され、会長に白川博士、顧問に福来博士、土井晩翠翁、赤痢菌発見者の志賀潔博士が推された。この研究会は心霊現象の話あるたびに現地調査を行い、また霊媒を訪問、実験を重ねた。得心のゆく結果は得られなかったが、他方では講演会を開き啓蒙の事業を進めた。この研究会は福来心理学研究所に吸収されていった。
3. エピソード二つ
上述の研究会の時代のこと二つを紹介しておこう。まだ専用の集会室がなかったので、例会は会員の自宅を持回りとしていた。いろいろ回ったはずだが、いま覚えているのは関眼科と黒田の拙宅である。拙宅のときとった写真一葉がある。一九四七年前後か。
志賀博士、福来博士、晩翠翁、筆者の叔父・高橋謙肋医師、志賀博士のご次男、亮、黒田正大学生(筆者三弟、後に精神科医師、医学博士、宮城刑務所医務部長)、星猛夫大学院学生へ後に新潟大学名誉教授、理学博士、動物学専攻)、千葉正士大学院学生(後に東京都立大学名誉教授、法学博士、法人類学専攻)、黒田正典東北大学助手(後に東北大学名誉教授、文学博士、心理学専攻)の顔が見える。
もう一つの話は東北心霊科学研究会主催の実験で、白川会長は竹内満朋霊煤を招き、博士勤務の金属材料研究所内で二日にわたる実験を行った。会場の暗幕を引き暗室化され、霊媒の周囲は精神統一のためということで、黒幕のキャビネットで掩われた。人形、メガホン、懐中電燈、紙と墨汁を含んだ筆等が夜地盤料を縁られていたが・盛蝶の精神統一が深まるとともに、これらが空中を飛び、あるいは紙に文字が書かれ、メガホンから声が出たりした。
第二日も実験が同様に進められたが、研究室助手が「黒いものが出てきた、また出てきた!」と叫んだとき、現象はすべて止まった。キャビネットを開いしたが、回復せず実験は中断された。その後、博士は東京に竹内氏を訪ね、再度の実験を依頼したが実現するにいたらなかった。なお、実験は一九四九年に行われた。
この心霊実験には筆者も大学生として観衆の一人であった。それに対する評価としては種々のことが考えられる。この実験のスタイルは欧米社会の中で行われていた心霊実験のオーソドックスな方式に従ったものである。これを、福来先生受難の故事あるにもかかわらず大学の研究室の中で実験したことは、わが国では最初のことであり、白川博士の知的な勇気と誠実は評価されねばならない。一方、心霊実験そのものの方法論には問題性が避けられない。能力者、あるいは一般には被験者が所期の成績すなわち現象発生をもたらすには、リラックスした心理状態が絶対に必要である。通例の知能検査、性格検査でさえ検査者が険悪な監視の態度をとると、検査得点は平常の能力よりも下がる。これを実験者効果という。さりとて本人を気楽にするため実験条件をルーズにすれば、実験結果には客観性がなくなる。他方、監視を過度にして現象が発生しないからといって、現象の非存在は証明されたことにはならない。能力者・被験者のりラックスした心理的条件と厳格な実験条件がい限り、現象の否定も肯定も果たされたことにはならないである。
4.福来博士の業績の再認識、名誉回復
一九六七年七月に日本催眼医学心理学会が仙台で開かれることになり、日本における催眠心理学の先駆者として福来先生の再評価の絶好の機会とすることが企図された。そこで福来心理学研究所の総意をうける形で、「福来友吉博士の業績の紹介ー催眠心理学的側面とその後の展開 」、黒田正典(東北大学教養部)・中沢信午(山形大学理学部)・三品正直(三品内科)・杉山清人(杉山歯科)の連名発表として十月十四日に黒田が講演した。まず先生の略歴と著作を紹介した後、研究内容の解説に移った。業績は、初期における催眠心理学的側面の展開と、その後の超心理学的側面の発展に大別される。前者については、「催眠とは一切の自発的活動の全く休息」した状態である。他方、暗示とは「連合的に活動すべき精神的あるいは精神物理的傾向を゜発」する刺激と考える。博士の催眼理論は英国の連合心理学と東洋の仏教心理学の巧みな融合であった。超心理学的研究では、観念は「要求」「力」「空性」の性質をもつことを念写の実験で立証しようとした。例えば能力者が武田信玄を念写した後、全く意図しない上杉謙信が現れた。これは観念自身が連合の要求をもつことを証明する。また観念は乾板に感光させる力をもつ。または観念は物の障壁と関係なく空と同様に通過する。以上の発表は多大の反響と歓迎をうけ、学界における博士の確固とした地位への言及が相次いだ。
5.福来心理学研究を支える人々
故白川勇記博士は「前史」時代に引き続き、研究所の初代所長としてその発展に貢献した。第二代の中沢信午所長は山形大学名誉教授で理学博士、植物学専攻で財団法人日本メンデル協会理事である。第三代所長は筆者である。星猛夫理事は、晩翠翁を囲む心霊研究のグループに志賀博士の参加を仲介し東北心霊科学研究会の結成に貢献した。浅間一男理事は理学博士、古生物学専攻であるが、仙台の福来心理学研究所の開設後、初代の管理人も勤めた。国立科学博物館地学部長の職にあったが、日本心霊科学協会の理事長もつとめた。杉山清人顧問は、自己自身は多くの神秘的体験をもちながら、医学の立場から科学的超心理学を推進する。故黒田正大前監事も医学系の研究者で「前史」時代から陰の力として奉仕した。故岡田幸雄理事は理学博士で東北大学、山形大学、ブルックリン大学(ニューヨーク〉、電気通信大学、東海大学を歴任した。戦時中であるが海軍航空機の墜落多いのはアンテナの欠陥のためと看破、世界で最高感度のアンテナを創造した。東北大学時代に電気通信に関する数学的基礎理論を作ったが、これは文化の領域にも適用できる情報科学の最初の研究で、ベル研究所による開発に先立つこと八年であった。岡田博士は自己の理論で「千里眼」の解明も期待したのであった。また電気通信大学で「超心理学」の最初の講義を行った。そのほか若手研究者として中鉢武理事は画像処理の専門家、佐佐木康二理事は「プラナ」「タキオン」等を扱う新領域、「磁流物理学」の研究者である。最近では生体の多元情報計測をされている東北大学の田中治雄工学博士(評議員)、世界各地の不思議現象を調査、自ら体験し、新次元の研究をされている森田健不思議研究所所長(評議員)などがいる。なお以上の諸氏は科学者であるが、隣接の世界の人として歴史的文筆家といいうる一群がある。加藤ちとせ理事は郷土史エッセイスト、鈴木双竜前評議員は郷土の武将・学者に関する著作者、中山栄子前理事は郷土女性史の専門家である。また、能力者タイプとして渡部隆男理事は真理探究の立場からの手かざし治療家、若山敏弘理事は「超念力」の治療家である。そのほか研究所を支える人として、福来博士に縁りのある福来昇三理事(会社経営)、それぞれに見識あるいは異能をもつ多くの理事、評議員が控えるが、紙幅なく割愛する。協賛グループのコーナーでも紹介されているのでご覧いただきたい。なお以上は人材の紹介であるが、そのほか公的刊行物として『福来心理学研究所研究報告』、研究所付属の啓蒙団体「福心会」の機関誌として『福心会報』(休刊中)がある。