久々のブログ部活動でござんす。
今回は「ふるさと」、「なかなか良い」というワードに縛られて書かなくてはならぬです。
アミダくじよりもずさんな選び方でこの2つが選ばれたから特に意味はないのだ。
そこんとこ理解しといてくだせぇ。
どっからどうつなげようか迷うとこだがまずは「なかなか良い」からなかなかさんにエントリーしてもらおうかな。
このなかなか。漢字なら中中、中々ってとこだな。
こやつは副詞と呼ばれるやつ。
奴さんの属する副詞ってのは日本語の中にそれはそれはたくさん散りばめられてるわけで。
日本は福祉についてはどうか知らんが少なくとも副詞に関して言えば手厚い保護を受けてるまさに副詞国家と言えるんじゃなかろうか。
主には動詞、形容詞なんかを修飾する縁の下の力持ち的な役割をしてんじゃないかな?
しばらく揉む、みるみる大きくなる、いっぱいおっぱい!てな具合に色のないものを飾り立てて文章を華やかにしてくれる影の功労者ですよ。
オノマトペなんかも副詞だしね。
日本人のわびさび文化の奥ゆかしさを構成するものの一つに表現の豊かさがあるだろう。
副詞の多さがゆえにってのは十分考えられるんじゃないかな。
今回ご応募頂いた中中さんは程度を表す副詞で「まあまあ」とか「とても」なんかと兄弟みたいなもんテネグロ。
えぇ。
もうなんか語尾にふるさと感じそうな言葉繋げて行くという方向に逃げようかなと思ってまススキ。
とまぁくだらんことはおいといてオティワカン。
まったく~ないを0として極めてを100とするとなかなかってのは50ぐらいじゃね?っていう印象。
でさ、「かなり」って言葉わりと高い感じするけど実はなかなかと同じぐらいのポジションなのよね実は。
あちきも知らなんだ。
わりとはまあまあそこそこのちょい下ぐらいか?
かなりって今まで7、80程度の感覚で使ってたわ。
かなりの頻度で。
物事をぼかすには極めて有用な副詞をこれからもたくさん使ってこうと思うわけでさぁ。
そんなとこから今回のブログは始まります。
前置きなげぇよ。
結論から言うとふるさとってのはなかなか良いもので自分の中ではこの上なく良いものでもなくさほど良くないというわけでもない。
まさになかなか良いのだ。
そこに確固たる理由はない。
そこそこ良いよ。
そこまで好きじゃないんだね?
とても良いよ。
好きなんだね?
なかなか良いよ。
へぇ。
これですよ。
これが日本語の良いところ。
ええ塩梅で逃げる。
どこがどうだとはっきり理由付けできないものはこれで逃げるに限るね。
ふるさとってもんは多かれ少なかれ誰しもが持つ懐かしむ気持ちでそれが過ぎると懐古主義者なんて揶揄されることにもなるが、、、
心身をリラックスさせるものだとあちきは認識している。
だからこそ何のゆかりもない田舎を訪れても懐かしい気持ちが芽生えるのではなかろうか。
プルースト効果なんてものも人間には装備されている。
特定の香りを嗅ぐとその匂いに結び付いた記憶を呼び起こすという現象ね。
匂いってのはどうやら人間の本能的な感情に最も関与するらしい。
和歌にしろクラシックにしろ感情に随分左右される作品はノスタルジーを感じさせるものがどれほどあるものか。
アメリカからボヘミアを想ったドヴォルザークしかり、その辺の山見て昔育った場所を思い出す歌人たちもまた同じ心境だろう。
今ラブラブでちゅーって歌よりも過去の恋愛の方が響くのも似たような感覚じゃないですかね。
こっちは余計な感情もいっぱいこびりついてるだろうけども。
個人的な何の確証もない独り善がりな分析をしてもいいですかい。
現在ではないわけじゃないけど先進的な音楽にノスタルジーを感じるものは少ないと感じとるわけでさぁ。
なぜか。
過去の芸術家たちと今の芸術家との明確な違いはなにか。
ハードではなくソフトの面でね。
もともと無い世界から何かを表現することで感情を乗せやすいものというのはふるさとを懐かしむ気持ちだったんじゃね?ってお話し。
今は無い世界からでもある世界からでも表現可能で選択肢が非常に増えていると思うんだお。
クラシックの時代における教養は数学か哲学か宗教かそこらへんの比重はなかなかのもんでフィボナッチ数列やないけどもそこに音と哲学なんかが絶妙なバランスで混ざりあいそこに感情が入り込んだことによってできあがったんではないかというあちきの胡散臭い仮説。
和歌なら、、、
やまとうたね。
あんまり知らんけど前にちはやふるハマってた時にちょいと調べた経緯から。
もとは山岳信仰の国やから八百万の神々にいいリズムで祈ってたところそれが五七調のお馴染みの形になって広まったと。
歌は神に訴えるから「うた」って言葉になったとされとるわけですたい。
そっから五七調が残って神さま抜きに感情を流し込むとそりゃ懐かしい気持ちを歌いたいよ。
その時分歴史とか宗教とか思想学んでたわけでしょ?そりゃノスタルジーを歌にするよ。
ってな見解ですん。
今はそれこそ有り余る情報に洋ものの悪魔なり神話なりおいしく作り上げたゲームやらアニメに昔にはなかった音、車の音でもパソコンのキーボードうつ音でも。
人間が心地よい波長的なものも研究されとるわけやし。
てなると無機質なものが生まれるのも当然の成り行きだよねと。
先進的に作り上げたものを流行らせるノウハウもあるものねと。
しかしまあ先進的なものと古典的なものを行ったり来たりするように人はできてると思うのだよ。
個人であっても社会の雰囲気としても。
原点回帰の考え方なんてまさにそうでしょ。
やはりふるさとはなかなか良い。
自分自信もそう感じるし社会もまたそうなんだろう。
あれ?
今の表現なんかこの上なく俺様第一主義ぽかったね?
社会がそうであり自分自信もそう感じる節が多々ある。
こんぐらいにしとこかしら。
日本の経済事情、出生率、田舎の若い女性の人口の問題。
人並程度には理解しているつもりだ。
ただね、不変的価値があったからこそふるさとはなかなか良いものじゃないかい。
最後にふるさと。
これは何とも語感のいいものだ。
ハ行の息の摩擦からラ行の舌使い、サ行のスピード感、タ行もね、、、ね!
これをまた平仮名で表記することで視覚的にも丸みを帯びて優しい印象を受けるね。
故郷、古里、ふるさと。
絶対ふるさとでしょ。
そら納税したくもなるわな。
っちゅうことでもっかい言います。
ふるさとはなかなか良いから良いんです!
これぐらいでこじつけはいいかな?
さいなら!
今回は「ふるさと」、「なかなか良い」というワードに縛られて書かなくてはならぬです。
アミダくじよりもずさんな選び方でこの2つが選ばれたから特に意味はないのだ。
そこんとこ理解しといてくだせぇ。
どっからどうつなげようか迷うとこだがまずは「なかなか良い」からなかなかさんにエントリーしてもらおうかな。
このなかなか。漢字なら中中、中々ってとこだな。
こやつは副詞と呼ばれるやつ。
奴さんの属する副詞ってのは日本語の中にそれはそれはたくさん散りばめられてるわけで。
日本は福祉についてはどうか知らんが少なくとも副詞に関して言えば手厚い保護を受けてるまさに副詞国家と言えるんじゃなかろうか。
主には動詞、形容詞なんかを修飾する縁の下の力持ち的な役割をしてんじゃないかな?
しばらく揉む、みるみる大きくなる、いっぱいおっぱい!てな具合に色のないものを飾り立てて文章を華やかにしてくれる影の功労者ですよ。
オノマトペなんかも副詞だしね。
日本人のわびさび文化の奥ゆかしさを構成するものの一つに表現の豊かさがあるだろう。
副詞の多さがゆえにってのは十分考えられるんじゃないかな。
今回ご応募頂いた中中さんは程度を表す副詞で「まあまあ」とか「とても」なんかと兄弟みたいなもんテネグロ。
えぇ。
もうなんか語尾にふるさと感じそうな言葉繋げて行くという方向に逃げようかなと思ってまススキ。
とまぁくだらんことはおいといてオティワカン。
まったく~ないを0として極めてを100とするとなかなかってのは50ぐらいじゃね?っていう印象。
でさ、「かなり」って言葉わりと高い感じするけど実はなかなかと同じぐらいのポジションなのよね実は。
あちきも知らなんだ。
わりとはまあまあそこそこのちょい下ぐらいか?
かなりって今まで7、80程度の感覚で使ってたわ。
かなりの頻度で。
物事をぼかすには極めて有用な副詞をこれからもたくさん使ってこうと思うわけでさぁ。
そんなとこから今回のブログは始まります。
前置きなげぇよ。
結論から言うとふるさとってのはなかなか良いもので自分の中ではこの上なく良いものでもなくさほど良くないというわけでもない。
まさになかなか良いのだ。
そこに確固たる理由はない。
そこそこ良いよ。
そこまで好きじゃないんだね?
とても良いよ。
好きなんだね?
なかなか良いよ。
へぇ。
これですよ。
これが日本語の良いところ。
ええ塩梅で逃げる。
どこがどうだとはっきり理由付けできないものはこれで逃げるに限るね。
ふるさとってもんは多かれ少なかれ誰しもが持つ懐かしむ気持ちでそれが過ぎると懐古主義者なんて揶揄されることにもなるが、、、
心身をリラックスさせるものだとあちきは認識している。
だからこそ何のゆかりもない田舎を訪れても懐かしい気持ちが芽生えるのではなかろうか。
プルースト効果なんてものも人間には装備されている。
特定の香りを嗅ぐとその匂いに結び付いた記憶を呼び起こすという現象ね。
匂いってのはどうやら人間の本能的な感情に最も関与するらしい。
和歌にしろクラシックにしろ感情に随分左右される作品はノスタルジーを感じさせるものがどれほどあるものか。
アメリカからボヘミアを想ったドヴォルザークしかり、その辺の山見て昔育った場所を思い出す歌人たちもまた同じ心境だろう。
今ラブラブでちゅーって歌よりも過去の恋愛の方が響くのも似たような感覚じゃないですかね。
こっちは余計な感情もいっぱいこびりついてるだろうけども。
個人的な何の確証もない独り善がりな分析をしてもいいですかい。
現在ではないわけじゃないけど先進的な音楽にノスタルジーを感じるものは少ないと感じとるわけでさぁ。
なぜか。
過去の芸術家たちと今の芸術家との明確な違いはなにか。
ハードではなくソフトの面でね。
もともと無い世界から何かを表現することで感情を乗せやすいものというのはふるさとを懐かしむ気持ちだったんじゃね?ってお話し。
今は無い世界からでもある世界からでも表現可能で選択肢が非常に増えていると思うんだお。
クラシックの時代における教養は数学か哲学か宗教かそこらへんの比重はなかなかのもんでフィボナッチ数列やないけどもそこに音と哲学なんかが絶妙なバランスで混ざりあいそこに感情が入り込んだことによってできあがったんではないかというあちきの胡散臭い仮説。
和歌なら、、、
やまとうたね。
あんまり知らんけど前にちはやふるハマってた時にちょいと調べた経緯から。
もとは山岳信仰の国やから八百万の神々にいいリズムで祈ってたところそれが五七調のお馴染みの形になって広まったと。
歌は神に訴えるから「うた」って言葉になったとされとるわけですたい。
そっから五七調が残って神さま抜きに感情を流し込むとそりゃ懐かしい気持ちを歌いたいよ。
その時分歴史とか宗教とか思想学んでたわけでしょ?そりゃノスタルジーを歌にするよ。
ってな見解ですん。
今はそれこそ有り余る情報に洋ものの悪魔なり神話なりおいしく作り上げたゲームやらアニメに昔にはなかった音、車の音でもパソコンのキーボードうつ音でも。
人間が心地よい波長的なものも研究されとるわけやし。
てなると無機質なものが生まれるのも当然の成り行きだよねと。
先進的に作り上げたものを流行らせるノウハウもあるものねと。
しかしまあ先進的なものと古典的なものを行ったり来たりするように人はできてると思うのだよ。
個人であっても社会の雰囲気としても。
原点回帰の考え方なんてまさにそうでしょ。
やはりふるさとはなかなか良い。
自分自信もそう感じるし社会もまたそうなんだろう。
あれ?
今の表現なんかこの上なく俺様第一主義ぽかったね?
社会がそうであり自分自信もそう感じる節が多々ある。
こんぐらいにしとこかしら。
日本の経済事情、出生率、田舎の若い女性の人口の問題。
人並程度には理解しているつもりだ。
ただね、不変的価値があったからこそふるさとはなかなか良いものじゃないかい。
最後にふるさと。
これは何とも語感のいいものだ。
ハ行の息の摩擦からラ行の舌使い、サ行のスピード感、タ行もね、、、ね!
これをまた平仮名で表記することで視覚的にも丸みを帯びて優しい印象を受けるね。
故郷、古里、ふるさと。
絶対ふるさとでしょ。
そら納税したくもなるわな。
っちゅうことでもっかい言います。
ふるさとはなかなか良いから良いんです!
これぐらいでこじつけはいいかな?
さいなら!