◎20XX年の読書会 | IKUの楽描き捕物帖

◎20XX年の読書会

 今日も「量子ネットワーク」経由でメタバース(3Dビジョンの仮想空間)を用いて各家庭のリビングにおいて、大阪都立電子図書館友の会による国際読書会が開かれていた。高度で高速な自動翻訳チップが内蔵された電子ブックリーダに言葉の壁は、すでにない。文化的理解なども多様な資料映像を多角的に使って解説されており問題とならないのだ。また、ネットワーク上の会話は瞬時に通訳されるため、地球上に友人が拡がり、国境という概念は、実に希薄なものになった。

 さて、今回、課題の電子本は毎年の村上賞「遥か昔のスノッブ作家、村上春樹のノーベル文学賞(当時権威のあったらしい)受賞を記念して創設されたネット文学賞」にノミネートされている無冠の作家、マクロ佐吉・著「****の眼差し」である。題名からして国のネットワーク検閲に触れ、伏せ字になっているという今年一番の話題の書だ。今では歴史博物館の真空ガラス容器の中でしか見られない、全てが紙という稀少過ぎる素材で出来ている綴じられたファイルの本という形態の実物が、日常的に読まれ流通していた頃の話だ。考えられないことに不特定多数の市民に滅菌消毒・毒物検査もしないで図書館業務で貸し出しされていたという事実は驚きである。なんでも紙のページは、めくりにくく唾を指につけないと難しく、間接的に雑菌だらけの紙を舐めるという、実にナノレベルの衛生モラルの欠如が、ある種、牧歌的趣きさえ感じる。記念すべき千回目に相応しく舞台となるのは、さかのぼること半世紀、古ぼけた図書館の会議室で開かれる月一回の読書会である。今も昔も本来、読書は孤独な行為であり、年齢・性別・職種の壁を越え感動を共有化することで愉しみを倍増させたり、知の集積によって個人なら出逢えない未知の領域の書籍の発見があったりと、ネットワーカが目指した理想郷みたいなものがアナログの権化のような読書会には存在していた。

 ところで、その時代の本の虫も総じて乱読で不思議なことに、どんな本でも琴線に触れてしまったという。ひねくれ者は想う、きっと、内容よりも瑣末な日常から逃れ文学に親しむという高尚な、ひとときを過ごしている自身のライフスタイルに優越感を覚え嬉しいのだ。へそ曲がり屋は悩む、年間12冊を消化しても面白い書籍は数冊程度、ほとんどが始めの数ページで挫折しそうになる、後は文句たらたらの苦闘の果ての読了。自身の了見の狭さなのか、価値観の違いは怒りとなって暴れだす。文学を判っていない、語り口が、くどい、人間観察が足りない、人生って、そんなもんじゃない、被害者意識全開で傷を舐め合うのは見苦しい・・・。本を語ることは、自身の本性を見せること、誠に恥ずかしい。そして、そこで小市民(当時の自虐的表現)の人間マンダラが語り綴られていくという構造。ちなみに容量800GB(ギガバイト)余りの大長編群像小説である。正規版は化石のような悪名高き国際オレンジ・ネット規約に従い、数十ページにわたり欠落となる。ハッカーによる海賊版なら、全て読めるはず。

 電子本を手に持った極薄シート状のブックリーダで能動的に活字を読み進める、その行為すら、もう、すでにアナクロ的酔狂な趣味になっている。何故なら、脳髄分岐プラグと20G通信とのコネクトは安全に繋ぐことが出来、「高速・睡眠読書システム」が改良、普及することで、夢を観るように受動的に世界中の膨大な書籍の閲読が「スポンジが水を吸う」という故事のように可能となりはじめたからだ。

 本という、かけがえのない、リアルな小宇宙と真摯に格闘し向かい合っていた、あの頃の読書会の人々には敬服するばかりだ。(終)