みなさん、今日は愛を追い求めることで、なぜ疲れてしまうのかのお話です。
例えば、タイトルのように、私たちが馬で、目の前にイミテーションのニンジンをぶら下げられ
それを愛だと思って、一生懸命に追いかけているとします。
なぜ愛だと思っているかと言うと、それが愛だと教わったからです。
イミテーションですが、世間では愛と言われていますし、愛情と呼びます。
だけど一生懸命に追いかけても、いつまで経っても、どんなに頑張っても
その愛のニンジンは、得られません。
そして疲れ果て、追いかけるのがイヤになってしまうのです。
すると今度は、ニンジンを追いかけないとエサはあげないよ
ニンジンを追いかけないお前は変だ!大丈夫か!と脅かされます。
そして今度は、頑張らないと、エサの愛も与えないよと脅かされてしまうのです。
ですからニンジンを追いかけないと、エサもあげないよ
孤立して、孤独に野垂れ死んでしまうよ と脅かされて恐怖を煽られるのです
エサをもらえないのは、ニンジンを追いかけない罰です。
ではなぜ、罰を受けなければならないのでしょうか
それは勝手に、ニンジンは愛!ニンジンを追いかけないのは罪とされてしまったからです。
そして今度は、その罪、ニンジンを追いかけない罪になり、罰せられるのがイヤで、
追いかけたくもないニンジンを、追いかけさせられてしまうのです。
それでニンジンを追いかけ、いつか愛されるだろうと
その愛される努力している自分に酔い、満足してしまうのです。
こんなに頑張っているぞ~!こんなに頑張っている自分はいつか愛される~!なんて。
満足して、今のニンジンを追い求める人生が、当たり前になってしまっていますが
実は、その根底には、愛をもらえない恐怖追いかけないと、嫌われて、見捨てられて、
孤立して死んでしまう強烈な、死の恐怖 が入れられているのです。
本当の愛は、そのニンジンでもなく、与えられる愛(エサ)でもないのです。
光を浴び、水分に潤おされ、大地の恵みを受け育った、無償の愛があり
今、ここに生きている、そのような無償の安心感の中にあるのです。
そこでは、何かを一生懸命に追っかけることは必要ありません。
何かの罪にされて、裁かれ罰せられることもありません。
ただ、そこに在り、私たちは、生かされているのです。
それが無償の愛 無条件の愛
です。
でも、それに気づくには、ニンジンも、エサも、愛されることも、孤独の恐怖も
一度手放して、我に返らないと、見えないのです。
ニンジンを見て追っかけているうちは、ニンジンに執着させられ真実が見えないのです。
雑念を捨てる、無になる、空になる、何でもけっこうです。
方法や入口は、何でもいいのです。
入れられた幻想、入れられた恐怖
は、捨ててしまいましょう
なぜなら、誰もが愛されている ですから自分にやさしくしましょう。
頑張ることは自虐です。その頑張りも自虐です。
自分が心からしたいことを頑張りましょう。それは、許される。許しがあるのです。すどうゆうじ
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