木簡というと断片的な記載がときどきみつかるというくらいの認識で、地味なものだと思っていた。
まあ、地味なものであることは間違いないのが、この本を読むとなかなかに奥深いものがあるということを知った。
日本最古の書物とされる古事記は、その序によれば西暦712年に成立した。
それ以前の日本について知りたくても、同時代の記録としては魏志倭人伝しか存在しない。
しかし、木簡の中には7世紀中ごろか、場合によっては6世紀後半のものではないかと推測されるものも存在するという。
その内容が解読可能なものであれば、日本の歴史を書き換える可能性がある訳だ。
素敵である。
さて、飛鳥浄御原宮時代(672年-694年)に宮の北東、酒船石遺跡の北側に工房があった。
「飛鳥池遺跡」と呼ばれる地帯である。
ここでは釘、針、小刀、鉾などの鉄製品や、富本銭に象徴される銅製品、銀製品、玉の加工品、漆製品などが生産されていたらしい。
工房で働いていた工人は、東漢氏(やまとのあやし)の系統に属する葛城系の工人が中心だったようだ。
葛城には渡来系の工人が多く住んでいたとされる。工人たちを束ねていたと思われる葛城本宗家は5世紀後半に雄略天皇に滅ぼされ、工人たちは東漢氏のもとに編入された。
やがて東漢氏は大伴氏とともに蘇我氏の傘下に入る。
さて、上記の流れと土師氏の祖である野見宿禰伝説とはどうつながるか?
日本書紀によれば葛城地区には土師氏が棲みついていたことになるのだが。
土師氏=渡来系工人であったのか、土師氏と渡来系工人が共存していたのか、それとも土師氏が渡来系工人を支配していたのか?
当研究所としては、土師氏自体も渡来系氏族で技術者集団を統率していたと考えたい。
葛城地区を与えられた彼等はそこにいた紡績集団を征服吸収し、勢力の中心であった採鉱、土木技術者の性質に基づき活動拠点を移していく。
葛城地区はいわば空家となり、残った一部の定住型工人に新たな渡来系工人が合流し、渡来人の里が形成されていったのではないか。
もの作りの歴史という観点で、情報を追いかけていってみたい気がする。
これはすべて想像の産物である。