7. 鉱業政策:
さあ、いよいよ「信長の黄金」について語ろう。商業、経済という信長ドクトリンを支えるためには、欠かせないものがある。
貿易を支える輸出商品である。この時代、日本が誇る輸出商品とは、次のものであった。硫黄
銀
銅
刀剣
扇子
漆器
屏風刀剣以下の品々は、おもに工芸品、美術品としての価値を認められたものだ。一方、硫黄、銀、銅という鉱物資源が日本の主要輸出品だったという事実は、現代の状況からは不思議に思える。
しかし、地政学的、採掘技術的にみると、当時の日本はこれらの鉱物の世界的産地であった。硫黄は、先に述べたように火薬の原料として不可欠のものである。
中国は火薬発明国であるが、当時国内の硫黄産出量では需要に対して十分ではなかった。
彼らにとって、日本は重要な調達先であった。信長の領土拡張はただ単に領地を増やし、京への進出路を確保するためのものではなかった。
鉱山の所在地を地図に重ねれば、鉱物資源確保の意図が見えてくる。中国地方:生野銀山、石見銀山
甲斐信濃:黒川金山、湯之奥金山
駿河相模:土肥金山、伊豆箱根(硫黄)
加賀越中:五箇山(硝石)土肥金山については、信長が開発を命じたという伝承が残っている。
一時は佐渡金山に次ぐ産出量を誇った、日本屈指の金山である。金山といえば、武田信玄の甲州金が名高い。
信玄は自ら鉱山経営に乗り出したわけではなく、山師による鉱山開発を奨励したにすぎないようだ。
一方、信長は自ら積極的に地下資源開発に乗り出し、鉱山の直轄化を目指していたと推測される。安土城には大量の黄金が蓄えられていたという。
後を引き継いだ秀吉、家康が鉱山の天領(直轄地)化を進めたのは、信長の影響である。鉱山資源の開発のためには、当然山岳地帯に踏み入らねばならない。
通常、山地は生産力を持たず、支配の対象とはみなされないので、不都合はないはずである。しかし、ここで衝突せざるを得ない勢力がある。
山岳系の寺院と、山の民である。鉱山開発を進めようとする信長と、立ち入りを認めようとしない山岳勢力の対峙。
比叡山焼き討ち、伊賀征伐は、鉱山開発という観点から見直すことができる。比叡山や伊賀山中に信長の隠し鉱山があったとしたら…。比叡山制圧後、その近隣に明智光秀の居城坂本城が築かれた。
偶然ではない。
光秀は、信長の隠し鉱山奉行だったのだ。比叡山中で採掘・精製した資源(金か銀か?)を坂本まで運び、琵琶湖水上を渡って安土に移送する。
伊賀からは陸路密かに安土へと運ばせる。
安土は日本の黄金郷であった。
8. 「北陸の火薬庫」五箇山:
一方で、石山本願寺は山寺ではない。
鉱山資源を巡って争ったとは思えないが、争いの原因は何であったか。
大坂という立地を奪うことが目的であったと解されているが、それだけではなかった。日本で硝石精製に成功した土地、五箇山と本願寺は密接につながっていたのだ。
五箇山といえば、世界遺産にも登録された合掌造りの里である。
白川郷も同様の存在として、近隣に所在する。
(五箇山は富山県側、白川郷は岐阜県側にあるが、お互いの距離は小さい)あの合掌造り集落を建設し、維持する元となったのが、硝石生産によって得た利益であった。
そして五箇山地区は、全村挙げての「真宗門徒」であった。
石山本願寺開祖蓮如の時代に布教を受けたとされる、根っからの浄土真宗信徒である。五箇山で作られた硝石は、石山本願寺に納められていた。
本願寺の武力の背景には、五箇山の硝石があったのだ。
そして本願寺に納められた硝石を、堺商人が買い上げていた。毛利氏が本願寺を支援したのは、信長敵対という理由だけではない。
五箇山の硝石が欲しかったのである。信長が朝倉・浅井同盟を攻めると、本願寺が兵を起こした。
理由がある。信長の戦略目標が五箇山だったからだ。
五箇山を、硝石を守るために本願寺は信長を攻めたのである。信長にとって、朝倉や上杉など田舎大名にすぎず、どうでもよかった。
上洛の途上にもなければ、経済的にも重要性の乏しい地域である。それでもあえて兵を差し向けたのは、硝石独占の意図に他ならない。鄙びた合掌造りの里は、「北陸の火薬庫」だったのだ。(五箇山については、下記のURLから)
http://www.gokayama.jp/index2.html
9. 最強の軍事国家:
これらすべての施策を総合し、信長は最強の軍事国家を建設した。農繁期でも行動できる軍隊
訓練を積み重ねた職業軍人
最新鋭の装備(長槍、火縄銃、火薬、馬、軍船)
豊富な兵糧
隙のない防衛体制
そして、すべてを支える資金源恐るべきは、これらを持続可能なシステムとして構築したことである。
信長こそは、日本史上最高の経営者であった。
これはすべて、想像の産物である。