去年のイベントの事ですが 昨日 永遠の0を見に行き、零戦の姿を思い出しアップした次第です、もう日本での飛行は無いのでしょうかね?2020年のオリンピックでブルーインパルスとのコラボが観たいです。
太平洋戦争で旧日本海軍の主力戦闘機だった零戦で、製造当時のエンジンで飛行可能な唯一の機体でエンジン始動が埼玉県の所沢航空発祥記念館であり、約4時間かけてチケットを手に入れ観ることができました
イベントは同記念館が開催する「日本の航空技術100年展」の一環。「機体番号61―120」と呼ばれる同機を、所有する米カリフォルニア州のプレーンズ・オブ・フェーム航空博物館から借り受けたそうです。
今回里帰りした機体は、アメリカ・カリフォルニア州チノにある「プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館(Planes Of Fame Aviation Museum=POF)」が所蔵する零戦五二型61-120号。前述の通り、オリジナルの栄21型エンジンで飛行できる世界唯一の零戦であり、世界的にも有名です。尾翼に記された数字は「第二六一海軍航空隊の120号機」を表し、この機体の所属部隊を表しています。
機体銘板によると、零戦五二型61-120号は1943(昭和18)年5月、群馬県の中島飛行機小泉工場(現:パナソニック東京事業所)で製造された、中島第2354号機(三菱製造分と中島製造分は、別々に製造番号が振られている)です。機体の外側には「第5357号」と書かれていますが、これは捕獲(鹵獲)された際に実際の製造機数を敵に知られない為の「欺まん数字」です。撃墜マークは演出で、実際のものではありません。定期的な塗り直しのたび、微妙にパターンが変化しており、かつては国籍章(日の丸)の後ろに二重の山形帯(シェブロン)が描かれていました。現在の航空機登録記号「NX46770」の書体は、日本をイメージしたといわれる「バンブー」が使われています。この書体は、日本に拠点を置く米海軍機の所属表記にも使われているもの。また、主脚格納部などの内装色である「若竹色」の再現もなされていません。
五二型という表記は原型を「一一型」とし、前の数字は機体の仕様変更の回数、後ろの数字はエンジン変更の回数を示したもの(四は「死」に通じるので飛ばして五に)。萱場製作所(現:KYB)製の主脚柱についている製造銘板には「零式2号艦上戦闘機3型」とありますが、これはエンジンを栄21型に変更した零式2号艦上戦闘機(三二型以降)の3番目の型(三二型、二二型に続く)という意味です。海軍では二種類の呼称が使われていました。
製造後、1943年6月に鹿児島基地で編成された第二六一海軍航空隊(通称:虎部隊)に配備。部隊の移動に伴い、千葉県の香取基地から硫黄島を経由して、1944年2月末にサイパン第一基地(後のアスリート飛行場)に進出します。以降、ここを拠点にパラオやペリリュー島などの防衛戦に従事していました。
1944年6月18日、アメリカ海兵隊がこのサイパン第一基地(アスリート飛行場)を奪取します。この際、他の11機と共に61-120号は鹵獲されました。第二六一海軍航空隊自体は、6月11日のサイパン迎撃戦で8機が出撃し、無事だった3機はサイパンに着陸できずグアムに退避して、以後グアムに拠点を移しています。鹵獲された機体は、何らかの原因で稼働できないものだったようですね。実質的に放棄された機体だった為、ほぼ無傷で米軍の手に渡ったようです。
この時はビデオとカメラを交互に撮りアタフタしながら撮ったのが思い出されます
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エンジン 始動 !!
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