私は、自らの生活形態が精神に影響を与えていると信じている。ここで言う精神というのは精神状態の浮沈というよりも、幸せの感じ方の特徴というような意味である。

 例えば、東京で母と暮していた頃の幸福は、分不相応な夢を見ることでうまれていた。

小説家になるとか箱根ランナーになるとか、果ては世界の救世主になるといった妄想が幸福感をうみだした。

 アパートで一人暮らしをしていると、芸能界の影響で幸せになるパターンが繰り返される。一人暮らし7年間のうち、山梨学院がシード権を獲得した3年間――2005年、2007年、2011年――はいずれも、テレビで好きな女優を見たり、芸能人のブログを読むことで精神状態を上昇させている。

 それでは、ホームレス生活の場合がどうかというと、自叙伝こそが最大の関心になる。自ら書いた自叙伝の行く末に希望を抱き、人生の行方を託すことになる。現在この文章を書いているのも、おそらくはホームレス効果によるものである。

 また将棋を楽しむことで幸福を感じるのもホームレス生活時の特徴である。

 こうしたパターンを、偶然不信派は法則の一種ととらえる。

 

 また、以前から私の胸の中に「幸せ」と「人生の内容」はどちらが重要か、という命題があった。この命題に対する考え方も生活形態によって変わってくる。

 東京で暮していた頃は、次のように考えていた。

(人間にとって幸福であるかどうかは大して重要ではない。人生の中で何を成し遂げたかということがなにより重要である。ささやかな幸せなどに価値はない)

 しかし、一人暮らしを始め、「心はプルシアンブルー」を意識するようになって事情は一変する。

(私の幸福は箱根駅伝の結果に直接反映される。それに対して、私の人生などは誰も注目しない、取るに足らないものだ。人生の内容がどうであれ、とにかく幸せにならなければならない) 

 このような見方に立てば、テレビを見て感じる幸せにも充分に価値がある、ということになる。しかしこういう考え方をしていると、不幸な時には自分にはなんの値打ちもない、ということになってしまい、精神状態の低下に歯止めがきかなくなってしまう。

 ホームレス生活をしていると、この考えに変化が生じる。

(確かに私は山梨学院の駅伝を我が事のように感じている。「心はプルシアンブルー」を信じる以上、幸福が重要であることは間違いない。しかし、それが「私」のすべてではない。

幸せになればあとはどうでもいい、という考え方には無理がある。人生の内容も重視するべきだ)

 こうした考え方のもとに、自分の経験を他者に伝えたいという想いがうまれ、自叙伝執筆等につながっていくことになる。

 2度目のホームレス生活が始まる中で、自らの精神態度にこういった変化が起きているのを感じていた。カウンセリングで精神状態の向上ではなく、真相の解明を神頼みしたのもその表れといえる。

 このような変化はこの後のいくつかの決断に影響することになる。

 

 夏になって、H社を辞めるべきかどうか思い悩むことになる。この背景には1つのジンクスがあった。

 

(アトピージンクス)

 山梨学院が3年連続9位以下に沈む年、五十嵐久敏はアトピーを発症する。また五十嵐久敏がアトピーを抱えているのは山梨学院が3年連続9位以下に沈んでいる時に限る

 

 山梨学院が箱根駅伝の舞台に登場したのは1986年度のことであるが、それ以降、3年連続9位以下に低迷したのは、1999年度~2001年度と2010年~である。

 それに対して私が、アトピーだったのは2001年と2012年~である。

2013年もまた、アトピーを抱えていたから、このジンクスの有意性を信じれば、9位以下になるだろうという予想が成り立つ。 

偶然不信派はこのジンクスの存在をもとに転職すべきだと主張した。

(このジンクスもまた偶然ではない。皮膚炎を治しさえすれば、山梨学院は必ず上位に上がる筈だ。皮膚炎の原因はおそらくH社での冷蔵庫内作業であるから、まずは仕事を変えてアトピーが治るか試してみるべきだ)

 これに対して、常識尊重派は次のように反論する。

(ジンクスは絶対ではない。以前存在した「将棋を指せば6位以内になる」とか「勉強を頑張れば幸せになれる」も出鱈目だった。ジンクスの崩壊をいくつも経験してきたではないか。ジンクスの存在に左右されて、せっかくの適職を捨て去るのはいかにも愚かしい。

ジンクスを恐れない強い気持ちを持つことが重要だ)

―――ジンクスといえば、以前箱根駅伝ではこんなことがあった。

5区山上りで毎年のように驚異的な走りを見せ‘山の神’といわれた東洋大学の柏原竜二が主将になるとき、あるジンクスの存在が注目された。「東洋大学の主将は箱根駅伝に出走できない」というのが、それである。実際過去5年間、東洋大の主将は直前の故障や不調で箱根出場を逃していた。このジンクスについて聞かれた柏原選手は「そんなものは気にしていない」と答え、実際5区を4年間でもっとも良いタイムで駆け上がり、大会記録を8分以上更新する圧勝劇に、主将として大きく貢献した。ジンクスなど問題でなかったのである―――

 このような事例のことも思い出しつつ、結局アトピージンクスには目をつむってH社で働き続けることになる。

 通常であれば、ジンクスを重視し、仕事を変えていたと思う。ここで仕事をやめなかったことは、私にとってH社での仕事がいかに魅力的であったかということを物語っている。この頃には周りから「仕事が速いね」などと褒められることが珍しくない状態になっていた。自らの本来の無能さを思えば、それは奇跡といってよかった。H社での仕事はとても簡単にやめられるものではなかったのである。

 ホームレスに戻って人生の内容も重視する機運が高まっていたことや、駅伝には順位だけでなくタイムという要素もあることも仕事を続ける要因となった。