箱根駅伝が終わって、問題となったのが、2012年も海外小説を読むかどうかということだった。ここで海外小説に関係するジンクスについて再掲する。

(海外小説ジンクス1)

五十嵐久敏が海外小説を1冊でも読んだ年が明けた後の箱根駅伝では、総合成績で山梨学院大学が神奈川大学を上回る。反対に、五十嵐久敏が海外小説を読まなかった年が明けた後の箱根駅伝では、総合成績で神奈川大学が山梨学院大学を上回る。

例えば2000年に五十嵐久敏が海外小説を読めば、2000年度の箱根駅伝で山梨学院が神奈川大に勝つことになる。

このジンクスは1996年度以降長く続いている。

また、海外小説をたとえば50ページ読んだ場合はどうなるのか、原書を読んだ場合はどうなるのかという点については試したことがないのでなんともいえない。

 

(海外小説ジンクス2)

五十嵐久敏が海外小説を1冊でも読んだ年が明けた後の箱根駅伝では、神奈川大学はシード権をとれない。反対に、五十嵐久敏が海外小説を1冊も読まなかった年が明けた後の箱根駅伝では神奈川大学はシード権を獲得する。

このジンクスは1996年度以降長く続いている。

また、海外小説をたとえば50ページ読んだ場合はどうなるのか、原書を読んだ場合はどうなるのかという点については試したことがないのでなんともいえない。

 

(社会適応ジンクス)

 箱根駅伝で神奈川大学がシード権を確保してスタートした年、五十嵐久敏は社会に適応する。反対に神奈川大学がシード権を取れずにスタートした年、五十嵐久敏は社会適応に問題を抱えることになる。

 「心はプルシアンブルー」とは違い、時系列の順で箱根駅伝が先で、社会適応が後にくることを注意しておく。

 このジンクスは1996年度以降、長く続いている。

 

2008年にこれらのジンクスに気づいて以降も、海外小説を毎年読んでいた。それは海外小説ジンクス1を重視したためである。海外小説を読みながら神奈川大学の成績を上げるという方針の下、海外小説の読書量を減らすことを試みた。その試みは前年2010年度には効果があったかのようにも見えたが、今回の結果では失敗に終わっていた。これでは速読教室で身につけた形ばかりの速読を用いて海外小説を読んでもあまり効果はなさそうだった。

こうした状況で海外小説を読み続けることを疑問視する動きがうまれていた。

(海外小説ジンクス2をみれば、海外小説を読んでいない年(度)は神奈川大学はシード権をとっている。ぶっかけに頼っている状況を打破するためにも、いったん海外小説から離れてみてもいいんじゃないか)

(海外小説ジンクス2に気づきながら、海外小説を読み続けている状況は、神奈川大学に対する罪悪感をうみだしている。その罪悪感が精神的負担になっていることは否定できない。この罪悪感の軽減のためにも、海外小説をやめるのはありだろう)

 私は数々の罪悪感を抱えているが、そのなかで神奈川大学のチームに対する罪悪感は無視できない重みをもっている。

 海外小説ジンクスが本当に法則性に基づくジンクスなのか、私には分からない。しかしその有意性を前提とした上で海外小説を読む判断をしてきたことは事実である。その背景に

(山梨学院のことは絶対的に応援する。神奈川大学の足なら少々引っ張ってもかまわない)

という考えが多少なりともあったことは否定できない。しかしこのことに私は強い良心の呵責を感じる。

 私にとって箱根駅伝はあまりにも大きい大会である。しかし、なにもそれは私に限った話ではない。箱根駅伝が1年間の最大の楽しみという箱根駅伝ファンは少なくない。

駒澤大学の大八木弘明監督が「箱根駅伝は、大会の盛り上がりに関してはオリンピック以上の存在になっている」と指摘していたように、毎年の箱根駅伝の盛り上がりは並大抵のものではない。そのなかで箱根駅伝を競技生活の集大成とする選手も少なくない。

 そうした事情を知り尽くしている私が、神奈川大学の成績を軽視するような読書をしていることには忸怩たる思いがある。

 また、ある時、インターネットを見ていると神奈川大学の大後栄治監督のことを大誤算とよんだ書き込みがあった。これは「大後さん」と「大誤算」が同音であるというだけでなく、かつては箱根駅伝連覇を果たしながら、近年はシード権争いにすら絡めていない現状を含意していた。この記述を見た時、私は泣きたくなった。

(多分、神奈川大学の低迷は大後監督の手腕云々とは関係ないレベルで起きていることなのに…)

 あるいはこのような考え方をするほうが失礼にあたるのかもしれないが、それでも私は海外小説ジンクスの存在を気にしてしまう。

 こうしたことを思えば、海外小説を読むのをやめたほうが楽になれるかもしれなかった。

海外小説を読まず1年間をすごして、神奈川大学がシード権をとれるのかという点に興味を感じていたことも事実である。

 それでも海外小説を読むのをやめることは容易でなかった。

(「心はプルシアンブルー」を信じている私にとっては、山梨学院の駅伝は文字通り我が事だ。その私が海外小説を読まないのは、わざと勝ちを譲る意味合いがある。勝負事で、わざと負けるのは絶対にやってはいけないことだ)

(PATMで苦しんでいる現状を思えば、1年後から社会適応できるとは思えない。社会適応ジンクスを考えれば、海外小説を読もうが読むまいが神奈川大学はシード権を取れない。海外小説を読まなかったら、山梨学院はその神奈川大学すら上回れなくなる。危険すぎる)

 これらの主張もまた無視できるものではなかった。

 こうして心が揺れた場合、結局海外小説を読んでしまうのは、ある意味必然といえる。というのも、例えば一週間のうち6日間を読むのをやめる方向で考えていても、残りの1日で読むべきだという方向に気持ちが傾けば、その日に海外小説を読んでしまうからである。

 加えて、読むか読まぬか迷いを抱えた状況から逃れたいと思う気持ちも、海外小説読書の決断を後押しする。

 こうして結局、2012年も早い段階で海外小説を読むこととなった。胸のうちにふくらむ罪悪感には目をつむるほかなかったのである。翌年以降もこのパターンで海外小説読書が続けられることになる。

 しかし、こうして海外小説を読むか読まぬかで悩むのは我ながら奇妙に感じる。

もし海外小説ジンクスがただの偶然の産物にすぎなければ、こうしたことで悩んでいる私は相当に滑稽である。

 一方で海外小説仮説が正しければ、外国人が書いたフィクション作品には、特殊な作用があることになる。

振り返ってみると、2000年に「冷血」(カポーティ/新潮文庫)という作品を読んだことがあった。この作品は実際の殺人事件をモデルにしたドキュメンタリー作品である。この年他に海外作品を読むことはなかった。

 2000年度の箱根駅伝は、9区終了時では山梨学院が神奈川大を上回っていたが、10区で逆転されるという結果だった。海外小説仮説を前提として考えたとき、この結果はフィクションだからこその影響力があることを示唆している。しかし日本人が書いたフィクションにはその作用がないということにもなる。

(こういう考え方には真実性が含まれているのか? ただの妄想にすぎないのか?)

 この問いに正しく答える手段は、現状ではまったく想像がつかないというほかない。