本書にはさまざまなジンクスが登場する。私は「心はプルシアンブルー」以外にも多くのジンクスの存在に気づいてきた。それらのジンクスを紹介することも、本書の目的の一つである。

さまざまなジンクスの存在に気づいた時、それが法則性に基づくものなのか、だたの偶然の産物にすぎないのかということがしばしば問題になる。

この問いに対して、私の中には2つの立場がある。ただの偶然などではありえないとする立場と、偶然にすぎないだろうとする立場である。本書では前者を偶然不信派とよび、後者を常識尊重派とよぶことにする。

偶然不信派と常識尊重派のパワーバランスは、考察の対象となるジンクスによって異なってくる。例えば、「心はプルシアンブルー」については、私は偶然の産物とはまったく思っていないので、常識尊重派の出る幕はない。しかし他のジンクスについては、偶然不信派が優位な場合もあれば、常識尊重派が優位な場合もある。

そうした心の中の様子を簡潔に描写するため、偶然不信派・常識尊重派という言葉を使うことにした。本書では、しばしば「偶然不信派は次のように主張した」というような表現が出てくる。これはあくまで比喩的な表現であって、実際に頭の中で偶然不信派の声が聞こえてきたりするわけではない。この点は誤解のないようお願いしたい。

早速、いくつかのジンクスを取り上げ、これらの表現を使ってみたいと思う。

 

私には、2005年以降、毎年欠かさず続けている習慣がある。毎年最低1冊は海外小説を読むというのがそれである。海外小説というのは日本人以外の作者によって書かれ、訳者によって翻訳された作品を指している。翻訳小説といったほうが一般的かもしれないが、本書では海外小説で統一する。

私の感性からいえば、小説に関しては外国人の書いたものより、日本人が書いたものの方が魅力的である。今まで感銘を受けた作品はどれも日本人の作者によって書かれたものばかりだった。

それでも海外小説を読むのは、次のジンクスの影響が大きい。

 

(海外小説ジンクス1)

五十嵐久敏が海外小説を1冊でも読んだ年が明けた後の箱根駅伝では、総合成績で山梨学院大学が神奈川大学を上回る。反対に、五十嵐久敏が海外小説を読まなかった年が明けた後の箱根駅伝では、総合成績で神奈川大学が山梨学院大学を上回る。

例えば2000年に五十嵐久敏が海外小説を読めば、2000年度の箱根駅伝で山梨学院が神奈川大に勝つことになる。

このジンクスは1996年度以降長く続いている。

また、海外小説をたとえば50ページ読んだ場合はどうなるのか、原書を読んだ場合はどうなるのかという点については試したことがないのでなんともいえない。

 

常識尊重派はこの海外小説ジンクス1について次のような見方を示している。

(箱根駅伝で山梨学院が勝つか、神奈川大学が勝つか、確率は基本的に50%ずつである。

海外小説を読んだ年(度)に山梨学院が勝つ確率も、読まなかった年(度)に神奈川大が勝つ確率もそれぞれ50%と考えてよいだろう。2の10乗が1024であることをふまえれば、このジンクスが10数年続いたところで、大した確率ではない。箱根駅伝の本戦にはおよそ20の大学が参加している。そのうちの1校と山梨学院の間にこのようなジンクスが生じてもなんら不思議ではない)

 一方で、偶然不信派はこれをただの偶然ではないと考えている。すべてのジンクスに意味がある、有意であると考えるのが偶然不信派の態度である。

 しかしこの海外小説ジンクス1が有意なものであれば、私は海外小説を読む・読まないの判断で山梨・神奈川の勝敗を決定できることになる。私はそのようなことはあまり信じたくない。

 さきほども書いたことだが、箱根駅伝は学生ランナーにとって1年間の集大成の舞台である。そこにかけてくる選手の想いは限りなく熱い。それに比べて、私が海外小説を読むかどうかというのはあまりにも瑣末な問題で、箱根駅伝の重みとつり合う筈がない。

 海外小説ジンクス1については、その有意性を信じる信じない以前に、信じたくないというのが正直なところである。

 何はともあれ、私は海外小説ジンクス1に気づいて以降、毎年海外小説を読み続けている。これは山梨学院大学の応援を目的としている。しかしその判断が正しいのかどうか、あまり自信がもてない。というのも次のジンクスがあるからである。

 

(海外小説ジンクス2)

 五十嵐久敏が海外小説を1冊でも読んだ年が明けた後の箱根駅伝では、神奈川大学はシード権をとれない。反対に、五十嵐久敏が海外小説を1冊も読まなかった年が明けた後の箱根駅伝では神奈川大学はシード権を獲得する。

 このジンクスは1996年度以降長く続いている。

 また、海外小説をたとえば50ページ読んだ場合はどうなるのか、原書を読んだ場合はどうなるのかという点については試したことがないのでなんともいえない。

 

 (海外小説仮説)

 海外小説ジンクス1・2がともに有意なものであり、法則性にも続くジンクスだとする考え方を海外小説仮説とよぶことにする。

 

ここで箱根駅伝におけるシード権について少々説明しておこう。箱根駅伝ファンの方は以下の説明は読み飛ばしていただきたい。

箱根駅伝では優勝争いとは別にシード権争いも大きな注目を集める。シード制度は古くからあったが、20チーム参加となった2002年度以降は上位10位までの大学にシード権が与えられるようになった。シード権を獲得すれば翌年度の予選会の参加することなく、本戦に出場することができる。

箱根駅伝関係者にとって、このシード権が持つ意味は大きい。

よく言われるのは予選会に出場すると、予選会前に練習を調整する必要が出てきて本戦にむけてハンデになるということである。しかし私はこれについては若干疑問を感じる。2012年度には日本体育大学が予選会からの出場で総合優勝を果たしているし、2005年度の山梨学院大学の準優勝も予選会からの参加だった。このようなことを思い出すと、予選会に参加することが、必ずしもハンデになるとはいえないように思う。

むしろ、シード権がもたらすメリットは精神的な意味合いが強い。予選会までの10ヶ月間近い期間を本戦出場が約束された状態ですごせるかどうかの差は大きい。特に近年は、予選会のレベルが上がり、し烈な出場権争いがおこなわれている。実際前年度11位でわずかにシード権に届かなかった大学が、翌年の大会の出場を逃した例が複数ある。

このような事情から、毎年シード権争いにも注目が集めることになる。

海外小説ジンクス2もこのシード権に関するジンクスである。

もし私が神奈川大学ファンだったら、この海外小説ジンクス2に気づいた時点で海外小説とは縁を切っていただろう。しかし現実には山梨学院ファンであった。そのため海外小説ジンクス1の方を重視し、海外小説を読み続けることになった。

 しかしこのことは、私の胸中に罪悪感をうみだしている。海外小説ジンクス1・2に有意性があるのかどうか私に分からない。偶然であるようにも思えるし、偶然でないようにも思える。しかしこれらのジンクスをふまえた上で海外小説を読み続けてきたことは事実である。

(神奈川大学のチームに申し訳ない)

海外小説を読む私の心の片隅には、このような思いがある。

 さて、この海外小説ジンクスに関連して、もう1つジンクスが存在する。

 

(社会適応ジンクス)

 箱根駅伝で神奈川大学がシード権を確保してスタートした年、五十嵐久敏は社会に適応する。反対に神奈川大学がシード権を取れずにスタートした年、五十嵐久敏は社会適応に問題を抱えることになる。

 「心はプルシアンブルー」とは違い、時系列の順で箱根駅伝が先で、社会適応が後にくることを注意しておく。

 このジンクスは1996年度以降、長く続いている。

 

この社会適応ジンクスについては具体的に説明するのが早いだろう。

96年度・97年度、神奈川大は箱根駅伝を2連覇するなど、黄金期をむかえていた。

一方、私も神大箱根初優勝後の中学受験に成功し、某有名私立中学に通うことになる。この学校は中高一貫校で、普通にいけば6年間通う筈だった。

 その後、神奈川大は3位、8位と順位を落とす。私は中学時代に羽目をはずしすぎた影響で、エスカレーター式に高校に進めず、別の高校を受験することになった。

 21世紀に入り、神奈川大は5位、6位とシード校の座を守り続け、私は順調に進級を果たしていく。

 しかし2002年度、神奈川大は11位に沈み、7年ぶりにシード権を失った。私の方は大学受験に失敗し、浪人生活を送る羽目になる。その間近所に住む高校生から嫌がらせをうけるなどなかなか波乱万丈であった。

 翌年度、神大が8位で2年ぶりにシード権を確保すると、私は大学に合格した。これを機に愛知県に引越し、一人暮らしを始めることになる。

 翌年度も神大は10位でなんとかシード権を確保したが、その後低迷期に入ることになる。16位、17位、15位、15位、不出場というのが2005年度以降の成績だった。

 その間の私の生活ぶりは、やはりというべきか、ひどいものであった。表面的な部分だけたどっても、単位が足りずに大学を中退し、時にはバイトを無断で投げ出し、家賃を滞納し、ホームレスになり、挙句、神大不出場の大会直後には、所持していた調理用ナイフが発見され、銃刀法違反で逮捕・書類送検されてしまった。俗にいう転落人生そのものといったところである。

 

 この社会適応ジンクスに対して、常識尊重派の見方は冷ややかである。

(要するに神奈川大学が弱くなり、私の人生が転落人生だったというだけの話だ。ジンクスとよぶにも値しない。そもそも神奈川大が低迷した後に私が社会適応すればこのジンクスは簡単に崩壊する。ジンクスの存在を社会不適応の言い訳にしているだけではないのか)

 この常識尊重派の指摘はもっともだとも思うが、それでも私は社会適応ジンクスの有意性を否定しきれない。

 率直に言って、私は普通の人よりも劣っている。後に生活障害という言葉が出てくるが、障害者的な要素を少なからず抱えている。大人になって以降、人並みに社会に適応するのは容易なことではなかった。

(ジンクスの後押しでもなければ、社会適応など不可能だ)

 このような自己評価の低さが、社会適応ジンクスを重視する背景にある。

 しかし、箱根駅伝と社会適応の時系列的な前後が、この順番であったのは、おそらく不運なことであった。反対であれば、社会適応に対してもう少し熱心だったろうと思う。常識尊重派の指摘にあったとおり、箱根駅伝で神奈川大の低迷を見て今年も社会適応は無理、と早々に諦める傾向にあるのは否めない。

 さて、海外小説ジンクス2と社会適応ジンクスをあわせて考えると、海外小説を読み続けていることは愚かしいようにも思われる。それでもなお、海外小説を読み続けるのは、次の目論見によるところが大きい。

(海外小説ジンクス1を信じれば、海外小説を読んでおけば、山梨学院は神奈川大を上回る。この条件の下で、神奈川大学の成績を上げる方法を見つければ、山梨学院の成績も必然と上がる筈だ)

 このような思考態度は読者には奇異に感じられるかもしれない。海外小説仮説の正しさを疑いもなく大前提にしているからである。しかしこのような思考態度になるのは次のような考えによる。

(海外小説ジンクスが偶然の産物にすぎない可能性が存在するのは認める。しかしその場合、海外小説を読もうが読むまいが特に影響はないので、海外小説を読むべきかどうか考えること自体が無意味ということになってしまう。したがって、海外小説について考える以上は海外小説仮説を前提とするべきだ)

 この理屈こそが、我が胸中で偶然不信派が幅をきかせるゆえんである。

 さて海外小説を読みつつ、神奈川大の成績を上げるという方針の下、2010年に行なったのは海外小説の読書量を減らしてみるということだった。過去のデータを見ると、海外小説を読んだ冊数が少ない年(度)ほど、神奈川大のタイムが良かったのである。

 本書では、神奈川大学の箱根駅伝に関して、五十嵐久敏が海外小説の読書量を減らすことで期待できる効果を少読効果とよぶことにする。この少読効果の有無を知るには、何はともあれ前年度不出場だった神大が、本戦に復帰することが不可欠であった。

 10月に行なわれる箱根予選会に大きな関心を寄せていたことも、この2010年の特徴だった。