2010年

本書のタイトルを「心はプルシアンブルー」という。前著――タイトルは同じく「心はプルシアンブルー」だった――の続編にあたる。もっとも前著は出版したわけではない。したがって読者は前著を読んでおられない筈であり、その前提のもとに話を進めていくことになる。

 前著の大部分を書いたのは、2010年2月頃のことだった。本書では2010年からの2014年現在までの私の経験について、基本的には時系列順にまとめていくことにする。

 私が自叙伝に初めてチャレンジしたのは2006年のことである。この時はあまりにひどい出来で、とても他人に見せられたものではなかった。

 次いで、2008年に2回目、3回目の執筆をする。3回目くらいからようやく文章にまとまりが出てきたが、依然物足りなさを感じていた。

 2010年4回目の挑戦で書き上げた作品はそれなりに満足のできるものになっていた。

 このように幾度も自叙伝を書き直した背景について説明するには、タイトルである「心はプルシアンブルー」の意味を書くのが早い。プルシアンブルーというのは、箱根駅伝の常連校である山梨学院大学のユニフォームの色を指している。

 

(心はプルシアンブルー)

私・五十嵐久敏の精神状態の推移と山梨学院大学の箱根駅伝の成績の変遷が一致する現象を、本書では「心はプルシアンブルー」とよぶことにする。

例えば、五十嵐久敏の2000年の精神状態が良好であったとする。すると2000年度(01年正月)の箱根駅伝で、山梨学院大学はよい成績をおさめる。逆に精神状態が良くなければ、山梨学院大学の結果もふるわない。

「心はプルシアンブルー」は1990年代後半に始まり、その後長く続いている。

また、この現象をだだの偶然によるものでないとする考え方も「心はプルシアンブルー」とよぶことにする。

 

 本書ではしばしば「心はプルシアンブルー」という言葉が出てくる。「心はプルシアンブルー」が始まったのは…とか「心はプルシアンブルー」を意識するようになったのは…というような使い方をする。自らの精神状態が山梨学院大学の箱根駅伝の結果に云々と書くのは少々面倒なので、「心はプルシアンブルー」で統一することにする。

 また、もう1点注意していただきたいことがある。読者もご存知かとは思うが、箱根駅伝は毎年1月2日・3日におこなわれる。年が変わった直後のことである。

 このことは箱根駅伝を実況するアナウンサー泣かせの部分がある。例えば年末の取材である選手が「今年に入って一番調子がいい」と答えたとする。しかしこのコメントが大会中にそのまま紹介されることはない。1月2日・3日の時点で「今年」はまだ始まったばかりだからである。こういうケースでは「今年度に入って一番調子がいい」とか「今シーズンに入って一番調子がいい」というふうに言い換えられる。本書でも箱根駅伝については年度という表記で統一することにする。

 「心はプルシアンブルー」を信じるならば、2000年の精神状態と、2000年度の箱根駅伝が対応することになる。

 さて、私は1984年12月生まれであるが、生まれてこのかたずっと「心はプルシアンブルー」だったわけではない。山梨学院大学は90年代前半に3回箱根駅伝を制覇しているが、その頃私はとりたてて幸せではなかった。

 「心はプルシアンブルー」が始まったのは1995~1996年と考えられる。2010年の時点で、15年程度続いている計算になる。

 特に忘れ難いのは2001年から2006年までの6年間である。2001年度~2006年度まで

山梨学院大の順位は、9,2,12,14、2、12というものだったが、私の精神状態もこれと同じ推移をたどり、2回の乱高下を経験した。年によって大きく変わる精神状態は、同じ五十嵐久敏という人間のものとは思えぬほどだった。この6年間を経て、私は「心はプルシアンブルー」を信じるようになる。前著は、この時代の経験を中心にまとめたものである。

 私はこの頃の経験をただの偶然の産物によるものと思うことができない。

 しかし読者の中には、この考えを迷信であると考える方もおられよう。私はそのような読者も歓迎する。本書をいかなる読み方をしていただいたとしても、著者として深く感謝することを付記しておく。

 さて「心はプルシアンブルー」を信じれば、その年の私の精神状態が、年が終わった後の箱根駅伝の結果に反映されることになる。時系列の順でいうと、精神状態の方が先で、箱根駅伝が後である。

しかし、このことはある問題をはらんでいる。というのは「心はプルシアンブルー」を信じると、山梨学院の結果は箱根駅伝がスタートする前に決まっていると考えざるを得なくなる点である。

 陸上競技界には、「スタートラインに立った時には、既に勝負はついている」という言葉がある。しかし、この言葉を額面どおりに受け取る人は少ないだろう。

 確かに積み重ねてきた練習の量であるとか、レース当日の体調という要素は、レースが始まる時点で確定している。これらの要素がレースの結果に大きく影響することは間違いないが、加えてペース配分であるとか、アクシデントの有無、終盤での踏ん張りなど、スタート後にもレース結果を左右しそうな要素が多々存在する。通常の感覚からすれば「スタートラインに立った時、ある程度勝負はついている」という方が受け入れやすい。

 まして10人がタスキをつなぐ箱根駅伝では、「スタートラインに立った時も、ほとんど勝負は決まっていない」ように思える。またそのように思えるからこそ、見ていて楽しいということもある。

 しかし「心はプルシアンブルー」が真実であれば、箱根駅伝の山梨学院については文字通り「スタートラインに立った時には、既に勝負はついている」ことになってしまう。

 仮に箱根駅伝が始まる時点で、山梨学院の総合順位やタイムが確定していたとしよう。すると奇妙なことになる。例えば1区の選手が好走したら、2区以降の選手に悪い影響をおよぼす筈である。自らのタイムを短縮するためには、そのタイムをチームメイトに押し付けるしかないということになってしまう。

 私は「心はプルシアンブルー」は信じるが、このような考え方は受け入れることができない。

毎年箱根駅伝の盛り上がりは並大抵ではない。その中にあって、山梨学院大学の継走にもチームの熱い想いがこめられている。レースの前に結果が決まっているというようなことがあったら、そのような熱い想いがうまれるとは思えない。

 このことは、「心はプルシアンブルー」を信じていることと一見矛盾している。しかし私はこの点について次のように解釈している。

(以下、山梨学院大の駅伝チームの視点で考える。例えば、2010年、チームは努力を積み重ね、その集大成として2010年度の箱根駅伝をむかえる。通常の感覚から言って、レースの前に結果がすべて決まっているというようなことはあり得ない。だからこそ選手は死力を尽くして、箱根路を駆け抜ける。

こうして得られた結果が2010年の五十嵐久敏の精神状態を決定する―――このように考えれば先の矛盾は解消する。時系列の順でいえば後にくる箱根駅伝が、時系列の順ではそれ以前にあたる私の1年間の精神状態を決定すると考えるのである。

このことを別の言い方をすれば、チームにとっての箱根駅伝の2日間と、私にとっての1年間が同時に進行していると表現することもできる)

このような、異なる時系列が同時に進行しているという考え方は「シンクロニシティ」(マドモアゼル愛/説話社)という本で少々紹介されているが、あまり詳しくは書かれていない。

ちなみにシンクロニシティという言葉は、日本語にすると共時性とか「偶然でない偶然」と訳される。「偶然でない偶然」というと、偶然なのか偶然でないのかはっきりしない印象を受けるが、この訳はそうした印象をも含意しているのだろうと思う。

 

振り返ってみると、私は「心はプルシアンブルー」を意識するようになる以前から、山梨学院大学ファンだった。このことは「心はプルシアンブルー」を偶然の産物でないと考える大きな要因である。

私が山梨学院ファンになったのは、第73回大会で1年生ながら8区区間新記録をマークした古田哲弘選手の走りを見たのがきっかけだった。加えて古田選手の3年後輩にあたるデビット・カリウキ選手のことも大好きになり、いよいよ山梨学院ファンになっていった。

テレビで彼らの走りを見ているうちに、自分もプルシアンブルーのユニフォームを着て走ってみたいという思いが生まれ、その思いがこうじて高校時代は陸上競技部に所属していたほどである。

―――一般に、近年の箱根ランナーは20km程度の距離を1km3分前後のペースで走る。50m9秒のペースで1時間走り続ける計算になる。

近年の箱根ランナーの大半が、高校時代から5000mで15分を切るベストタイムを持っている。高校生の時点で、箱根駅伝の4分の1の距離ならば、1km3分ペースで走れる力を持っているのが普通である。

これに対して私がどうだったかというと、高校時代の5000mの自己ベストは18分台であった。まったくの問題外である。自分なりに熱心に競技に取り組んだつもりだったが、その結果がこれだった。これは精神力の弱さとか、フォームのまずさといった問題もあったとは思うが、何より才能の欠如によるところが大きかったというのが正直な感想である―――

当然、山梨学院に進学するという夢はあきらめざるを得なかった。後に、「心はプルシアブルー」を意識するようになった時、かなわなかった夢が実はかなっていたかのような不思議な感興を味わったものである。

毎年のように自らの精神状態をうつしだすかのような駅伝をするのが、他の大学だったらそれほど感銘をうけなかっただろう。それが他ならぬ山梨学院大学だったことで、私は「心はプルシアンブルー」の虜になっていった。

「心はプルシアンブルー」が私に与えた精神的影響は限りなく大きい。

私は、中学生の頃から人生に対して大きな虚無感を抱いていた。毎日の生活に、自分の人生に何の意味があるんだろう――こういったことは、しばしば頭に浮かぶ問いだった。高校時代、陸上競技を通して自らの才能のなさを思い知ったことで、虚無感はよりふくらんだ。

「心はプルシアンブルー」を意識した時、自らの人生の中に普通でない何かが存在することを感じ取った。その時初めて、自分の人生にもなにかの価値があるという確かな手応えをつかんだといってよい。

そういう意味で「心はプルシアンブルー」に対する私の感謝の念は深いものである。