「死ぬの?」

まるで今日の夕飯でも問いかけるような、屈託の無い問いかけに老婆は苦笑する。
いつの間にかひどく重たくなった瞼をゆっくりと持ち上げると、老婆の衰えた視界に薄ぼんやりと明かりが見えた。
ゆらゆら揺れる明かりが蝋燭の光だと気づくまでに数秒、蝋燭の明かりは襖の向こうにあるものだと気づくのに、更に数秒。
そして明かりに照らされて襖に映る幼い影が、老婆の尊敬する少女のものだと気づくのに、一瞬。
「あぁ、死ぬよ。多分明日にでも」
「ふぅん。そんなに正確に分かるもんなんだ」
「自分の事だからねぇ。例え明日のお迎えが無くても、一週間は持たないだろう」
「そっか」
残念ね、と襖越しに聞こえた少女の声は少しも残念がっているようには聞こえず、あまり興味が無いようにさえ思えるものだった。
皺で固まった頬を僅かに歪ませ、老婆は動かない手に力をこめる。
襖越しの少女の表情を、老婆が確認する事は出来ない。
せめてこの手が動けば襖を開けることだけでも出来たと言うのに、老婆の死期迫る体ではそれさえも許されなかった。
「お前は私が死んだら、悲しいか?」
「うん」
少女の言葉と同時に、影が頷く。幼子の様に素直に動いたそれに、老婆の胸がきりりと痛んだ。
苦くも甘く心に響くその痛みは、まるで初恋の様に締め付ける。なんて自分の馬鹿げた思考に、老婆は小さく息を吐いて目を閉じた。
そういえば、初めて少女に出会ったあの日も、同じように胸が痛んだのだっけ。
瞼の向こうでゆらゆら揺れる蝋燭の炎を思い返しながら、老婆は穏やかに笑う。
「悲しいし、寂しいよ。でも、」
少女の声は変わらず冷たくて温かい。70年前始めて出会ったあの日から、何も変わらず。
「すぐ、忘れると思うから」

『名前は言わなくてもいいよ。すぐ忘れると思うから』

少女の変わらない声色が、あの日の声と重なる。張りのある、成熟しきっていない小さな少女の声。
体の衰えと同時に記憶も薄れていたはずの自分が唯一、言葉の一字一句を間違えず記憶しているあの日と同じ言葉だった。
あの日自分は、少女の言葉に驚き、傷つき、そして泣きたくなった。だが、今はどうだ。
老婆は瞳を閉じたまま、くすくすと笑う。襖の向こうではきっと少女が首をかしげているだろう。それすらもおかしくて、老婆の笑いは止まらなかった。
変わらない少女が嬉しかった。忘れてくれる少女に安心した。
そして、少女の中に何も残せなかった自分が、少しだけ、悲しくて。
「…泣いてるの?」
「知っているだろう。私は、涙もろいんだ」
笑いながら、老婆は泣いた。
泣けない少女の代わりではなく、少女に涙をやれない自分に対して、皺と皺の間を流れる幾筋の涙をこぼし続けた。
「全く、いつまでたっても泣き虫なんだから。馬鹿な子ね」
きっと老婆の考えが少女に伝わったのだろう。少女の声が、突然優しくなった。
赤ん坊を相手にするような甘さと柔らかさ。聞き覚えがありすぎるその声は、自分が泣くたびに頭を撫でながらあやしてくれた声だ。
「もう、泣かない。これが、最後だから」
「うん」
「だから、ねぇ、最後に」
手を上げようと思って、しかしやはり老婆の手はぴくりとも動かない。
ゆらゆら揺れる蝋燭の明かりを見ようとしても、その瞳は暗闇だけを映した。
「ねぇ、お願い、お願いだから…」
「うん、いいよ」
駄々っ子の様な声に、少女の苦笑混じった返答が送られる。ほぼ同時にかららと軽やかな襖を開ける音が響き、老婆のこめかみの皺にまた涙が伝った。
自分自身では目を開けているのか閉じているのかも分からない。だからこそ、額に感じた確かなぬくもりが、唯一生を実感出来るつながりだった。
「死に際は見せたくないって、自分で言ったくせにね」
「手を、手を、握ってくれ」
「襖を開けたら夢枕に立ってやるって、言ったのつい3ヶ月前じゃない」
「忘れていいから、今私が、此処にいると、貴方が知っているだけで、いいんで、す」
老婆の耳に聞こえる少女の言葉は、もはやただの音となっていた。
泣いたことで体力を使ったのか、それとも元より寿命を使い果たしており、ただ少女に会うためだけに生きながらえていたのか。
そんな事はもう、どちらでもよかった。
突然睡魔に襲われた意識と、左手に感じる優しい温もり。この2つが理解できれば、もうそれで、十分だった。
「眠いの?もう、寝るの?」
少女の子守唄のような声が、老婆の夢の中の少女の声と重なる。
彼女がまだ十にも満たない幼子であった時代に、今と同じように自分を寝かしつけてくれた、少女の声と。
「そっか。寝ていいんだよ」
手の甲を一定の感覚で撫でながら、少女は穏やかに笑った。
母が子を慈しむような、優しく温かい眼差し。
少女の瞳が、僅かに潤んだ。

「おやすみ、可愛い子」

老婆が最期に感じたのは、老衰で乾ききった唇に落とされた、最初で最期の口付けだった。