宗教学講義から学んだこと
本講義において、私は宗教に対する考え方が変わる驚きを受けた。わたしはいままで「宗教」というものに対して、非常に形式ばったものをぼんやりとイメージしていたので、「宗教的なもの」とでもいうべき、緩やかな生活文化としての霊的存在との関わりが宗教学の対象であるという認識が新鮮であった。講義中扱った作品のなかで、『夏雪ランデブー』と『夏目友人帳』はいずれもそんな霊的な存在との関わりを軸にして物語が展開している。両作品の主人公は、普通の人と異なっている。周りの人間が聞こえない声が聞こえ、見えないものが見えてしまう。そのために周囲から浮き孤独である。私は、彼らのことがうらやましい、と思った。それはつぎの理由からである。
私は以前から、京都や高円寺のような街に憧れていた。京都と高円寺は全く違うではないかと考えるひとも多いかもしれないが私は両方の町に共通点を感じている。京都は景観保護の観点から、コンビニエンスストアなどの商業施設に対する外観規制が設けられている。夜間の照明を落とすこと、そして、色合いも街並みに溶け込むような地味なものを選ぶことなどである。それが街の全体的なデザインの統一性をつくっている。また、私は京都大学の吉田寮に宿泊したことがあるのだが、その際、寮とその生活文化から独自の気風を感じた。吉田寮では日本でもほとんどなくなった自治運営が依然継続されており、耐震的には非常に問題があるのだが、木造の老朽化した建物での生活を守っていた。京都大学のキャンパス周囲には立て看板が並び、大学の敷地とその周囲の街との境界が曖昧になって広がっているという感覚をもった。
高円寺もまたある建物や敷地、施設とその周囲の環境とが分節・切断されることなく連続している、見る人にその境界が淡く滲んでいるような印象を与えるという点で、似ている。さらにいずれの街も、商業的な大規模の施設がなく、細い路地道が残されていることが共通している。
たとえば東京駅周辺のオフィス街は、交通量の多い太い道路の左右に高いビルが立ち並びその地上階はほとんどすべて商店である。それは見る人に「整然たる威容」を与える。夜間、路上からきらびやかな摩天楼を見上げると、自分の孤独さ・卑小さを思い知らされるようだ。そんな街は整っていて美しく、透明で無国籍で清潔である。しかしガラスと鉄とアスファルトの世界は、人間が生きるのに十分な条件を与えない。そこには決定的な何かが欠けている。軽やかで快適ではあるのだが、どうも落ち着かない感じがする。
京都や高円寺には日本橋にないものがある。それは暗がり、隙間、汚れ、袋小路であり、老いや病や貧乏や死である。ショーウインドウを通しては見えないものがある、館内アナウンスを通しては聞こえないものがある。それはおそらく、霊的なものを筆頭とする不合理で非効率なものであるとわたしは思う。それらを通り抜けるときに何かが死んでしまって元には戻らない。たとえば、日本橋で迷子になっても、孤独を覚えることはあっても、異世界に迷い込んでしまったのではないか、もうもとの世界には戻れないのではないかというような恐怖はない。地図上のどこであるかはわからなくても、地図上のどこかであるという信憑はまったく揺らがない。京都や高円寺では、「あるいはここは地図上のどこでもない場所であるかもしれない」という不安に襲われることがある。それは、合理的客観的な既知の世界からはみ出す場所や存在との出会いである。ないはずのところに迷い込み、地図にあるはずの場所へとたどり着かないのだから、それはその瞬間においては真の意味で未知の、寄る辺のない経験である。それはなんの保証もないために底抜けに恐ろしいが、同時に開放感を与える。新雪に足を踏み入れたときの緊張と達成感に似たものがある。
私は、現代日本社会に対して強い閉塞感を抱いている。それは社会制度が不合理で頑迷で非効率で抑圧的であるために私の足を引っ張るからではない。そうではなくむしろ、それが十分に合理化、効率化、無菌化、文明化、客観化、舗装化されているために、歩きやすすぎるからである。すべてがすでにわかっている。目の前の場所や出来事や存在は全体の部分として構成されている。あまりにも機械化された世界である。肩書きをもたない人間は存在を許されない。所属を明らかにしないことには通行を許可されない。誰もが誰かの部下であり上司である。目的をもって植えられる花壇の花は水道水を注がれ肥料を与えられるが、道端の名もなき雑草の花は引き抜かれ無意味な塵として排除される。人間がやってくる前からあった河はコンクリート塀に覆われ、高速道路の陰になっている。ここにいた霊たちはどこにいったのだろう?私も耳をすませば彼らのように、聞こえないはずの声に誘われて、存在しないはずの小道を抜け異世界への冒険を始められるのだろうか。
この問いを抱くことができたということが、本講義から学んだことである。