何度でも同じ話をします。
ぼくもとうに飽きています。
なんとなれば、地震と時間と共同性ということについては3月からもう半年も考え続けてきているからです。
大震災の前後の議論。
大学一年前期の、新しい環境に飛び込む経験が意識にどのように現れるのかということ。
前期児文研モモゼミ。
夏休みの講演会ゼミ。
後期児文研ゴーシュゼミ。
地震にも切り口はたくさんありますよね。
というかたくさんあるだろうな、とおもったからこそそれをグループプレゼンのテーマに据えて、このように当会の一年生全員でバトンを繋いできたのです。
ぼくが着目したいのは時間意識ということです。
なぜ時間なのか。
時間を考えることが私たちにとって意義深いと考えるからであるし、おせっかいですが、被災者にとって、損なわれている(と考えるのですが)時間意識の再生がすべての復興の第一歩として位置づけられるからであります。
上段からの支援ではなく、すなわち東京のブルジョア的形態の縮小再生産ではなく、東北自身に寄る復興とは、被災者が被災者としての同定に安住していくのではなく、己の膂力によって立つことを意味します。
しかしそうした新しい風景を切り拓くには、現に東京一極主義を維持してきた時代に支配的なイデオロギーとの思想戦を制する必要があります。
地震は私たちに生き方の大きな変更を迫ります。
新しい世界に生きることは新しい思想を生きることであるでしょう。
そこで懸かっているのは時間認識のしかた、時間観念のしかたです。
思想は人間が生み出すものです。
けれどもまた私たちはみずから生み出したはずの思想に反って己自身のふるまいを規定されてしまいます。
人間の社会はひとがしばしば無自覚な、内的な思想としての時間意識によって規定されている。
世界の支配構造を原的にあらためさせるためには敗者たちの時間を解放することが不可欠です。
それは被災者たち、生き残った人々の体験であり政治を動かす力となるでしょう。
しかし、その最初の一撃は、内的な冒険の果てに辿り着くだろう劇的でありながらしかしなおかつ外的にはごくわずかな変化としてしか現れない認識の転回以外ではありません。
うわー大げさでよい!