レポートをゼロから書く元気と時間がなかったのでコンピにした。
平等と法について一度まとめてみようと思ったので今回の課題を奇貨としてちょっとだけ考えてみた。
ブツブツと切れてしまっているけれどそれぞれの節から拾って欲しい文脈は小見出しで指示してある。
「04」だけ書き下ろし
01平等は無限遠方の神という擬制を経由することなしに成立しない
西洋諸国では法権利の意識が浸透しているとされるが、それはなぜなのだろうか。
日本と西洋とを分かつものは一神信仰の宗教の有無にあるだろうと考える。
法をはじめ近代システムを支える大原則の一つである人間の平等は人間と人間の関係のうちからではなく人間と神の関係のうちから導出されるほかない。
人間同士を比べたとき平等の意識は芽生えない。
…みんな同じ?まさか!
のび太と出来杉くんとでは例えば勉強の点数について決定的な差がある。
100点と0点との間には明らかに100点分の差がある。
差があるということは平等ではない。
だが、逆にこの100点分の差を0に近づけることができれば平等に限りなく近づくということになるだろう。
そしてその働きが神と人との関係にある。神は無限遠方に位置する。
人間と神との距離に比較すればのび太と出来杉の差は限りなく無化される。
ほとんど無視してもよい。
つまり「無限の距離の向こう側に存在する神」というフィクションを経由しなければ平等は導くことが出来ない。
平等のリアリティは神のリアリティに依存している。
神のリアリティが損なわれれば平等のリアリティもまた損なわれてしまうということだ。
02平等こそまさに疎外に他ならない
平等が神と人間たちを比べたときに成立するものだとすればそれは低い水準での平等なんじゃないか。
出来杉とのび太で言えばのび太が勉強して100点-100点で並ぶんじゃなくて、「神に比べれば出来杉の100点も0点みたいなものだ」ということで0点-0点で並ぶのが平等ではないか。
ならば、近代の平等という人間関係は、ギリシアにあったような(あったそうです)豊かな高い水準における関係ではなく、不完全な貧しい物と物の関係のようであるのではないか。
理想視された「平等」という現実の人間関係がその実、物と物との断片的な冷たい関係でしかないならそれは「オタク-萌えキャラ」のような独善的で閉鎖的な関係と質的な差異を持つのだろうか?
03そもそも法は宙に浮いている
「権利の上に眠るもの」は法の保護に値しないとされる。
法の保護が必要ならば自分から申告せよというのだ。冷たい。
けれどもこれはどうしてなのだろうか。
私が思うに、法というものが宙に浮いているからではないだろうか。
法は「客観的・中立的・疎遠・他人事・よそよそしいもの」という印象をうける。
近代法による社会秩序維持は義理人情の大岡裁きとはちがう、というわけである。
そうして宙に浮いた法をなんとか地に着けようとすること、支えていこうとする泥臭い人間の努力が法を法たらしめるのではないか。
この考えの背景にあるアイディアは「法は脆い」ということである。
私たちは法のある社会、法治国家を当たり前のものだと考えている。
けれども、それはちがうのではないか。
法は脆い。脆い法に対して、私たち人間はあまりにも弱く、邪悪であり卑劣である。
当たり前の法だって、うっかりすると簡単に損なわれてしまうのではないだろうか。
04ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ
以上の議論からわかるのは法を人間的公正のうちに取り返すのは神ではなく等身大の人間であるということである。
だが法を地につけるという超人間的スケールをもつ難題をクリアするのは人間のどういった特権的な能力によるのか。
それは人間のやわらかさ、いわば回復力によるのではないかと私は思う。
やわらかさはしなやかな強さであるとともに損なわれやすさ、もろさでもあるという両面性をもつ。
深く傷ついた人間はどうやったら救われるのかということを考えたい。
それはまずはなぐさめられること、ゆるされること、受け入れられることによってだろう。
しかしいつまでもなぐさめられているわけには、ゆるしの声を聞いているわけには、安寧のなかでまどろんでいるわけにはいかないだろう。
傷ついた人もどこかのタイミングでもう一度立ち上がっておのれの膂力によって立たなくてはいけない。
それを可能にするものこそがやわらかさであるだろうと考えるのである。
柔らかさとは何か、先の通り、もろさでありしなやかさである。
それは具体的には誰しもが必ず持っている「そんなの知らないよ」という無責任な声のことではないか。
責任は天の声の命令によって強制されるものではない。
事実的にも権利的にも強制されたことはない。
なぜなら法理的公正はひとに押し付けることができても、人間的公正は、良心と惻隠の情と義侠心は天然自然に心のうちから湧いてくるべきものであるからだ。
人に言われてしかたなしにやることは続かない。
神なき時代には神なしで、弱く小さく邪悪で卑劣で無責任な人間が己自身によって責任・主体・自由を勝ち取らなければならない。
法を真に生きたものとするのはそうしたやわらかい人間のアクロバシーなのである。