日テレのスペシャルドラマを観る
アイシテル~絆~
http://www.ntv.co.jp/aishiteru-kizuna/
で、ちょっと考える
彼の兄はむかし殺人の罪を犯した
彼はそのために差別をうけたり苦しい思いをしてきた
どうして自分は生まれてきたのか、殺人者の家族にうまれて幸福になれるわけがないじゃないかと考えている
彼女に子供ができた
主人公はじぶんのような思いを子供にさせたくないとおもっている
殺人者の親族として生をうけることが(その要因がどうあれ)どれだけ辛いかということを経験的に知っているからである
さて、出産させるべきか堕胎させるべきかと主人公はかんがえる
*
いくつかの問題があわさっていると思う
00:犯罪者を差別することは妥当か
01:犯罪者の家族を差別することは妥当か
犯罪者の家族は犯罪者ではないのではないか
02:差別されている集団に属している人間が子供を生むことは妥当か
子供に差別される生を贈ることはよいことか
03:夫が妻に対して一方的に堕胎せよということは妥当か
*
業績原理(彼が何者であるかということは彼が何を為したかによって事後において回顧的に決定される)
帰属原理(彼が何を為しうるかということは彼が何者であるかによって事前において先験的に決定されている)
何をしたって結局「犯罪者の弟」としての同定に戻されてしまう
救済はあるのか?
00
犯罪者が差別されるというのは比較的どこでもみられることだとおもう
是非はともかくね
ツミはケガレだという感覚はたぶんある
罪人は汚いという感覚をぼくもどこかでもっているとおもう
一般論として
罪というのは良心的問題なのか
それとも法的問題なのか
たとえば大麻はオランダでは合法である
法は恣意的なものにすぎない
そうであればその行為が違法であることを根拠にして人間を差別することはおかしいのではないか
しかし犯罪者一般が前科のない良心的市民と差別されるということ以上に、ここでは特に殺人者が決定的に差別されているとおもう
万引き犯と殺人者とでは質的なちがいがあるか
まずは殺人の方がなにか決定的なような気がする
だがそれはなぜだろう
01
犯罪者の犯罪はそのひと一人の責任か
そんな行為を犯さないではいられないような社会的・出自的背景があったのではないか
人間の行為は個人だけでその責任の全体を主体的に担いうるか
たとえば違法なまたは反良心的な趣味嗜好をもつ個人がいてその価値観に基づいて行為を選択した場合それはどのような意味においてわるいこととされるのか
生物学的な男性的身体をもつ社会的な男性的精神が成人した生物学的な女性的身体をもつ社会的な女性的精神を好むということもひとつの性的倒錯にすぎないのではないか
ある行動を選択する思考そのものもまたそれに先立つ行為の連鎖と環境によって決定されるところがある
犯罪者を育て上げた家庭にどれだけ責任があるのか
現行の法的制裁で足りないときには世間的(社会的とはあんまりいいたくない)制裁を加えるべきではないか
私刑の問題があるね(法と良心)
02
これはむつかしい
他にも極貧である家庭とか厳格な「家の宗教」をもつ家庭、または障害があることが判明している赤ちゃんを生むべきかなんかも比較してかんがえたらいいかも
ここで考えなくちゃいけないのは「人間は生まれながらには不平等である」ということだとおもう
それと、生というのは無限の可能性に開かれている
「差別される社会そのものを変えていったらいいとおもいます!」
こういうのがいちばん無責任なんだろうね
政治的言説を地に付けるために「身銭を切る」はなしはまたべつに
03
育てるのは夫婦であっても
生む主体そのものは妻ではないのか
ここもむつかしい
お産はひとりではできない
「生む主体」というのを安易に立てられない
*
僕はですね
次のように答えます
答えが出ないなら答えを考えるというふるまいそれ自体を無限に繰り越し続けたらいいんじゃないかとおもいます
よく考え詰めないままでいいよ子供生んじゃえよ
代をおえばそのうち風化するってきっと
なぜこの答え方でいいのか?
そもそも「お前は結局犯罪者の弟じゃないか」と責任をおしつける声がそもそも無責任な世間/社会であるからです
無責任におしつけられた責任を解体するには「そんなの知らないよ」という無責任な水準によってされるしかないんじゃないか
*
実際のドラマは終盤の失速感にがっくりきたんですけれども(そんなんじゃ人間救われないよ)
問いばかりでてくるいいドラマではないかとおもいます