よみひとしらす | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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しらす?

しるす?


「「テクスト論」の徹底は当のテクスト論そのものの足元を掘り崩してしまうんじゃないか」仮説。

ぼくはそう思うんだけれどね。

テクストに外部はあるのか。

ある。

というか、「あるのか」という問いのうちにすでに含まれている「ある」ということが外部/内部の別を要する。

もうちょい考えてみよう。


*


「稽古」とはなんだろうか。

語義的な分析はまたこんど。


今日の稽古後の反省会でN先輩の指導を頂いた。

へばったときに「またもっと体力がついたらやろう」と思っていてはいけないんだということ。

それではいつまでもできないのであって、というか、一気に一回に全体が好転することはない。

そうではなくて、たんにまさにいまここでできないことをやるほかない。

稽古と練習を分かつのはそれらを規定する時間意識に他ならない。


練習ってのは、やがて来るべき本番の日に備えて、いわば「舞台裏」でやっていることだろう。

でも稽古はそうじゃないのだとK先輩は仰る。

稽古には「失敗が許されない本番=ハレ」と「失敗してもなんともない非番=ケ」とのちがいがない。

稽古はつねに稽古である。

あるはここ、ときはいま、である。

「日々是稽古」ということの一般的な理解は「なんとなくストイックね」程度のものであるけれども、それはことの半面しか捉えていない。

「日々是稽古」はどんなときも稽古であるからがんばりましょー的ふわふわしたスローガンであると共に、生死の懸かる失敗の許されない本番もまた稽古であるという徹底的な唯稽古論なのである。


で、時間意識だった。

いつかできるんじゃない。

それは今日なんだ。

今日できないことはいつまでもできない。

ふたつの立場はたぶん決定的に、ものことの認識が異なっている。

練習が近代理性的思考であるならば、稽古は野生の思考であるとおもう。


*


リスク・マネジメントの概説のネタをさがさないといけない。

ふと、ドリトル先生の話の中から例をみつけたらいいんでねーのかとおもいました。


あ、やるべきことをまとめてみよう。

シンク・ライト。


・フラ語

・リス・マネ

・ハリー・ポッター一巻一章

・なにか忘れている用事を思い出すこと


やっぱり水平打ちは楽しいです。

ぼくは好きです。

うまいかどうかはともかくもね。