甘い認識と厳しい現実とすかすかのモラル | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

タイトルで言いたいことが尽きてしまう。

うん、無力ですね。

過去は「過ぎ去り往くもの」である以上過ぎ去らなければならないことを書いた。

それはその通りなのだけれどしかし、それは「いつまでも過ぎ去ろうとしない出来事」を相手取ることができない。

被災地はまだ死者供養の余裕さえない極限状況にある。

又聞きだから真偽はわからないけれど、日用品のために強盗殺人も起こっているという。

うつろに響くけどいわば「ひどい状況」なのである。


そして問題はこれをどう考えるべきかということなのだ。

「ちょー泣けますもう涙ぼろっぼろっ流れて~なんかマジ感謝感謝って感じです人生観変わりましたよ」云々。

手ごろにパッケージされた、軽薄短小な、いわゆる感動ものに馴らされてきた、言ってしまえば「道徳的家畜」の人々はこうしたリアル・リアリティを前にしてどうふるまいうるか。

黙るほかないのである。

こういう反論があるかもしれない。

これは戦略的・選択的・積極的な沈黙なんだ、と。

提示された、つまりは選択可能な、正しくない、厳しい現実を前にしてまるで脆い選択肢のすべてに背を向けて選ぶことそれ自体を拒否するのだ、と。


でもぼくはそうは思わない。

結局のところ、沈黙もまた絶えざるエクリチュールの連鎖に回収されていく。

絶対に純粋で正しいものって、ないんだよ。

くどいが、弱く誤りやすい同時的言説を、それだけを私たちは紡がなくてはならないのである。

ぼくだって憧れる。

普遍性への飢えを、ぼくだって、ぼくなりに抱えている。

言われなくてもわかっている。

ぼくはなんにもできないし、つかえない。

でもね、やっぱりそこで一歩踏み込まないといけないのだとおもう。


孔子はすげえなとおもう。

彼はまさに極限的な状況、大変な退廃の時代にあって、そこで人間への信頼を説くからである。

それはいまできるだろうか。

たかが数百円の生活用品のために自分を殺そうとする人間を信じうるか?

あるいは、飢えた子どもの前で文学は無力か、ともまた問うてみる。

万巻の書物がパン一枚よりも軽い瞬間がある。

そういう元も子もないような原的な事実が目の前に転がっている。

人間を殺して食べ物を奪う、奪わないと生きられないということは、だからどうしたんだと思っていた。

でも、そうか、そういうことが問題になることがあるのか、と、「身につまされ」、「切実に実感」し、「迫真的に」感じられる。

こういう物言いはやめたほうがいいよな、ごめん。

でもまあ参った。

東北地方太平洋沖地震をうまく説明できない。

ということは本来的にはその危機を避けることができなかったのであって、ぼくは東北地方太平洋沖地震を生き残れなかった。

ほんとうにそう思う。

参った。