「未曾有の大災害」と浦安 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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浦安のボランティア活動に紛れ込む。

印象だけれどやはり地元の人が多いとおもった。

アクセシビリティ、「当事者意識」、それとたぶん学校や企業などで参加を呼びかけるアナウンスもあったんじゃないかとおもう。

彼らはみなささやかであれしかし高貴な善意を以ってボランティアに臨んでいる。

建前よりももう一歩踏み込んで、彼らはほんとうに「我がこと」として作業にあたっていると、ぼくは実感した。


けれども他方でそうではない人間もいたのである。

言うまでもないが、ぼくだ。

ぼくは第一にボランティアではない。

状況がそう強いたから、流されるように「ボランティア活動」に紛れ込んだに過ぎない。

実際、今朝も出かけるのが面倒くせえなとおもった。

第二に、復興作業への参加は善意に拠るものではない。

高貴な善意に拠る人助けが、たしかにある一方で、卑小な悪意に拠る人助けもあるとぼくは思う。

ぼくはボランティア批判のために復興作業に参加したのである。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」

批判するために、相手の懐に飛び込もうとしたにすぎない。

また、もう一つの動機に「綱領的一貫性のため」がある。

ぼくはさきに「労働の本質は雪かき仕事である」云々ということを書いている。

他でもないぼくによって唱えられたこのテーゼは浦安を見て見ぬふりをすることを許さない。

唱える以上はこのテーゼ自身をまさに「今ここ」で生活的に裏打ちすることを要求するのである。

そうした善意以外の功利的動機が含まれる以上はこれを慈善活動と呼ぶに値しない。


さて、問題はボランティア批判である。


ぼくは考えた。

「未曾有の大災害」をどう考えるべきか。

ぼくは「未曾有の大災害」は「未曾有の大災害」として同定されていてはいけないとおもう。

そのアクチュアリティはすでにこのときに少しずつ和らぎ薄れつつあるのである。

「未曾有の大災害」はやがては「曾有の災害」とされなければならない。

なぜか。

死者を死者として弔い、生者を生者として生かすためである。

もちろん服喪の方法については議論があるとおもう。

けれどもどんな儀礼であれ、葬送は「死者はもう還らない」ことの承認を要求する。

そしてその承認は「未曾有の大災害」を過去のものとして見なすこと、その現在の純粋さを放棄することによって為されなければならない。

未曾有の大災害を「未曾有の大災害」としていつまでも把持しようとする人間は、まさに死者の前で無力である。

ぼくたちは認めなければならない。

みんな同じなんだ。

阪神淡路大震災がもはや「曾有の災害」であるように、東北地方太平洋沖地震もまたやがては「曾有の災害」とされなければならない。

あなたが好むと否とに関わらず、東北地方太平洋沖地震はたしかにかつて起こった。

それはすでに起こってしまった。

その事実はもう動かないのである。

死者は「未曾有の大災害」としての東北地方太平洋沖地震の純粋さ、政治的正しさが過ぎ去ろうとしないかぎり安らぐことが出来ない。

だからその純粋さ、政治的正しさを鼓吹することは自制されなければならないとぼくは考えたのである。


そしてボランティアの精神を純化することを批判しようとおもった。

だが、それは少なくとも現場を見てからでも遅くない。

そう考えるだけの最低限の良識はぼくの中にもあった。

だから浦安に行った。

しかし動機はどうであれ、ぼくがしようとしていることは結局のところ、ぼくに礼を述べてくれ、自らも黙々と働いていた彼らを斬り捨てることではないのか。

ぼくは彼らを斬れるのか。

ぼくの言葉がぎりぎり生きたものになるにはこの問いが答えられなければならない。


答えは、斬れる。

だが、斬れない。

ぼくにもよくわからない。

でもまあそういうことがあるんじゃないかとおもう。

善と悪と、デジタルに二項にかちっと割れるわけではない。

その境界はぼやけ、相互浸潤的であるのではないか。

ウェットで多面的で弱く、ときに誤ることさえある生活的なボランティア、そういうものがある。

そしてそれこそがさまざまな党派的対立を調停し、死者を弔い生者を慰める、そうした運動になりうるのではないのか。


ぼくは泥かきはとても尊いとおもうよ。

そして、以上の考えについては彼らのふるまいから学んだところを多としなければならないだろう。

ちょー行ってよかったです。